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築紫紀行(5) 志賀海神社その4

 承前 築紫紀行(4) 志賀海神社その3

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 六角堂(ろっかくどう ひょっとすると鹿角堂かも)です。神功皇后が対馬で鹿狩りをされ沢山の鹿の角を奉納されたのが起源だそうです。現在でも1万本以上の鹿の角が奉納されているそうです。

 鹿に関しては、最近記事を書きましたが弥生時代から突然に聖なる動物に変身し、食料対象からは除外され神の使いであるとされた背景を記録しました。

 参考 弥生土器の線刻画 弥生時代の信仰(その1)

 参考 弥生土器の線刻画 弥生時代の信仰(その2)

 此処で、少し神功皇后(書紀では気長足姫尊、古事記では息長帯比売命、ともにオキナガタラシヒメノミコトと呼びます)に関して私の頭の中を整理します。

 ・三輪山付近で栄えた崇神王朝から河内に巨大な古墳群を築いた王朝、即ち河内王朝を切り開いた巫女王が神功皇后である。時代は4世紀と考える。

 ・中国の王朝が混乱し、楽浪郡・帯方郡が消滅し半島には高句麗、百済、新羅が起こり洛東江流域の弁韓・辰韓の鉄資源を生産する伽耶地方が危機に陥り、倭国は半島からの依頼により鉄資源確保の為に半島に軍隊を送り伽耶地方の鉄を守った。これが、神功皇后の三韓征伐の実態ではなかろうか。

 ・彼女の父は息長宿禰王(おきながすくねおう)、母は葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)であり、海の民の系譜を引き特に日本海から琵琶湖の水運を握る息長氏である。又、注目されるのは葛城の血を引く事です。仁徳天皇の皇后も葛城の襲津彦の娘である磐之媛であり、歴代河内王朝の皇后には葛城からでており、雄略天皇に滅ぼされた円大臣(つぶらのおおきみ)まで葛城の繁栄は続いた。

 ・東アジア・朝鮮半島が政治的に混乱になった4世紀に朝鮮半島の楽浪郡・帯方郡に居住した中国人や鉄資源の生産に従事していた技術者達を多量に日本列島に亡命させたのが葛城氏であり葛城地方に移住させたと考えられる。2千名を越す古代最大の技術者集団は弓月君率いる秦氏ではないだろうか。彼らは最初に葛城に移住した。蘇我氏も含まれると考えられます。

 ・雄略天皇の時代に葛城は滅びるが、その時に蘇我氏・秦氏・加茂氏、等々の渡来系の人々は四散する事になり秦氏・加茂氏は山城の国に移動し今の京都を開拓した。蘇我氏は河内の石川に拠点を移し、徐々に飛鳥へと地盤を広めた。

 ・卑弥呼が2世紀の倭国大乱を鎮め、邪馬台国連合の盟主となり3世紀の中葉に死亡するが神功皇后も混乱した4世紀の東アジアにあり倭国を鎮めた巫女だったと考えます。そして、河内王朝の礎を築いた倭国女王だったと思います。

 ・倭国の統治は琉球と同じで精神世界の頂点に聞こえ大君という巫女が頂点に立ち、現実の政治は男弟(だんてい)が王として執務する社会体制ではなかったかと思います。斉明天皇の頃でも未だ、そんな気がします。奈良時代でも女帝が多く登場しますが、その背景には倭国の卑弥呼の時代から綿々と続く巫女が精神世界を支配するという風土に根があるように思います。

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 境内には沢山の摂社が存在しています。

祇園社や稲荷社や秋葉社、等々沢山鎮座されていました。

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志賀海神社から眺める博多湾です。太古の時代から朝鮮半島と行き来が存在していたんでしょうね。

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 志賀島の北部に行きましょう。対岸は宗像あたりでしょうか。

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 玄界灘の雰囲気がでてきました。

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 それでは、島の北部にある志賀島資料館に向かいましょう。

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