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築紫紀行(3) 志賀海神社その2 

 承前 築紫紀行(2) 志賀海神社その1 安曇族の総本宮

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 神功皇后(オキナガタラシヒメ)と志賀海神社との深い関係を想像させる伝説です。神功皇后は夫の仲哀天皇と朝鮮半島出兵に関して意見が異なり、出兵を主張したと記紀には書かれています。事実かどうかは別にして、その時代は東アジアが大動乱の時期を迎える4世紀の頃ではないかと私は推測しています。

 中国では魏の王朝の朝鮮半島支配も終わり、混沌とした政治情勢が東アジアを襲います。4世紀の日本列島は謎の4世紀とも呼ばれていますが、中国・半島が混乱し歴史書に倭国を記録する余裕が無かったとみるべきでしょう。奈良盆地東南部の三輪山・磐余・柳本・大和という地域に存在したヤマト王権から河内王権に政治変動が起こった頃が神功皇后・応神天皇の時代ではないでしょうか。

 ヤマト王権にとり洛東江流域(伽耶地方)の鉄資源は生きるか死ぬかの生命線です、中国の王朝が乱れ、朝鮮半島の秩序が乱れ伽耶地方の鉄資源確保に危機が迫り、半島から軍事的な応援の依頼がヤマト王権に寄せられたのではないでしょうか。三韓征伐という動機は当時のヤマト王権には似合わないと思います。むしろ、鉄資源の確保、今で言う中東の石油確保の為の出兵と捉えたいと思います。

 ともあれ、出兵にあたり安曇(阿曇)族の親玉の協力が必要でした。その親玉が志賀島に拠点を置く海の民である阿曇磯良(いそよし)、磯良丸とも伝えられる。当時の志賀島には北部は勝馬と呼ばれそこにも海の民が存在したと考えられる。ともかく、安曇(阿曇)族の協力を得た神功皇后は朝鮮半島に出兵出来たのではないでしょうか。

 私は、記紀で書かれた事が根も葉もない嘘を書いたとは考えません、何らかの史実が背景に存在したと考えています。書紀では神功皇后を卑弥呼に想定した書き方をしており、200年~269年という卑弥呼の時代に歴史をあてていますが、私は4世紀の頃の出来事であると考えています。

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亀石だそうです。

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 志賀島から眺める博多湾の美しい風景です。万葉集には志賀島の歌が数多く収録されているそうです。

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 石塔婆です、1347年に建立されたようです。石造宝筐印塔(せきぞうほうきょういんとう)と呼ぶそうです。

 上から、相輪、笠、塔身、基礎と呼ばれているようです。

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 楼門です。

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 中国風ですね、重要な場所に行く前に必ず川を越えるんです。

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 楼門をくぐろうとするMuBlogの旦那さん。

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