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築紫紀行(13) 吉野ヶ里遺跡その2

 承前 築紫紀行(12) 吉野ヶ里遺跡その1 南内郭へ

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 吉野ヶ里遺跡の全貌です、未だに北部は発掘中です。全体の環濠集落50ヘクタールは日本最大の弥生遺跡であり、奈良の唐子・鍵遺跡の環濠集落25ヘクタールと比較されます。

 参考 奈良 三輪山周辺を歩く(唐子・鍵遺跡含む)

 吉野ヶ里という聞き慣れない名前の由来は、律令時代の条里制の里に由来しています。7世紀終わりから8,9世紀の頃は条理制があり、口分田がありました。戸籍を作り田圃の地割をしないと管理出来ない、その座標が水田の面積を1里、2里、と単位を設けた。1里は36坪に区分され50戸の人々が収容された。これが、里である。

 だから、吉野の里と呼ばれていたが、肥前の国独特の方言で吉野の里=吉野ヶ里と呼んでいたそうです。私の父の故郷である杵島郡には六ヶ里、戸ヶ里などがありました。

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 南内郭には4基の物見櫓が建っています。柱穴から類推して復元されたものです。本当にあんな格好をしていたか判りませんが、環濠集落が形成された時代の弥生土器に残された線刻画を参考に復元されたものと思います。

多くの環濠集落時代の土器の線刻画は近畿地方の唐子・鍵遺跡や大阪の池上・曽根遺跡が有名です。

 参考 弥生土器の線刻画その1

 参考 弥生土器の線刻画その2

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 南の守り、『櫓門(やぐらもん)』の復元です。中世の戦国時代でも登場しそうな櫓門ですね、本当にこんな櫓があったんでしょうか。楯を並べて弓で侵入者を攻撃したんでしょうね。江戸時代に武士しか門を構えるのを許さなかった背景には、弥生時代からの『櫓門』の意味が綿々と続いていたのかも知れない。

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 同行のMuの旦那が『櫓門』をくぐり、内郭の鳥居門を通過する場面です。私はこの遺跡は魏志倭人伝に登場する『弥奴(みな)國』だと推測しているが、本当かどうか判らない。その理由はこの地域は元来、三根(みね)郡と呼ばれていた事によります。投馬国なら5万戸、邪馬台国なら7万戸なければならない。

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 私は物見やぐらには屋根が存在しなかったと考えています。その理由は①火矢を仕掛けられた時に火災が起こる。②有明海を航行する船と火を焚いて灯台の役目や、船と通信をしていたと考えるので、屋根は邪魔である。

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