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第八回三輪山セミナーイン東京 (そのⅠ)

 承前 第七回三輪山セミナーイン東京(2010年8月)

 今回は考古学の重鎮 明治大学名誉教授の大塚初重さんの『東国の出現期古墳と大和政権』についての講演を私なりに理解した範囲で、ご紹介します。

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『列島の古墳出現年代』

 大塚さんの話では従来の考古学の常識では最古の古墳と言えば奈良盆地東南部の三輪山の麓に位置する『箸墓古墳』が常識でした。しかし、最近の考古学の成果により纏向の石塚古墳・勝山古墳・矢塚古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳が箸墓に先行する古墳である事が判明した。

 注:本件に関しては私も過去に記事を多く書いています。

  参考 桜井茶臼山古墳と纏向紀行

  参考 三輪山周辺を歩く

  参考 三輪山と日本古代史

 3世紀前半から中頃にかけて畿内周辺、及び瀬戸内海・山陰・北陸を始め広汎地域で弥生墳丘墓が登場した。例えば

 ・倉敷市楯築弥生墳丘墓

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 箸墓の特殊器台の源流はこの古墳ではないかと考えられている。吉備と箸墓古墳の関係は濃密である。この古墳を研究され、考古学の重鎮 近藤義郎先生はもう故人である。

 参考 楯築弥生墳丘墓に関して

 ・島根県西谷墳丘墓群

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 四隅突出型墳丘墓ですが、特殊器台・特殊壺という箸墓の源流となる遺物が出土している。その他北陸系土器や吉備産の特殊土器も出土している。

 ・徳島県萩原塚墳丘墓

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 3世紀前半の墳丘墓でありホケノ山古墳の埋葬施設の原型ではないかと考えられる石囲木槨構造の竪穴式墳墓である。画文帯神獣鏡も出土している。現地のテレビ局が当時、真面目に報道していました。

 参考 四国放送(萩原2号墳に関する報道)

 ・兵庫県綾部39号墓

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 参考 綾部山39号墳説明(御津町教育委員会)

 説明では、埋葬主体部は『石囲い(石塁壁)・竪穴式石榔・木棺』の3重の構造であり、ホケノ山古墳の埋葬施設との類似性が瀬戸内海を挟んだ向かいの鳴門の萩原塚墳丘墓とともに影響を与えていると考える。

 

 以上は箸墓古墳に先行する古墳出現期の高塚墳墓の例であり、『箸墓古墳』出現の前夜には瀬戸内海・山陰地域で纏向のホケノ山古墳や箸墓に影響を与えたと考えられる遺跡が確認され始めているのです。

 次には東国の状況はどうなっているんでしょうか。大塚さんの話では、昔の考古学の世界ではヤマト史観が支配的であり、ヤマトで発生した前方後円墳は50年~100年経過して東国の鄙な地に伝播したと考えるのが常識だったそうです。

 従い、研究者は東国の高塚墳丘墓は4世紀以降として報告書に書かざるを得ない状況が連続していたと打ち明ける。しかし、実態は弥生終末期より東国には近畿圏の土器や東海系土器が環濠集落で発掘され、列島は未曽有の大移動期だったのではないかと考えられている。倭国大乱の実態は西日本だけが舞台ではなかったのですね。

 次回、東国の2世紀末から3世紀前半の状況について報告したいと思います。

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