美しい安曇野の風景
承前 『おひさま』優しい二男坊
朝の連ドラの『おひさま』の舞台である安曇野の美しい景色に全国の皆さんは感動を覚えておられると思います。
参考 安曇野観光ホームページ
安曇野と呼ばれる地域は松本盆地、即ち上高地(昔は神河内と呼んでいた)から流れる梓川と犀川の西岸から高瀬川流域の最南部にかけての流域を指しているようです。安曇野の名前の由来は阿曇族です、日本列島では最古の歴史を誇る海人(アマ)であり、紀元前から北九州では漢王朝から金印を貰い活躍していた、志賀島を拠点とする奴国の末裔であります。
筑前国糟屋郡阿曇郷が本拠地でありました。継体天皇の時代に磐井の乱があり築紫の君である磐井はヤマト王権に敗戦しました。磐井の息子の築紫の君葛子が糟屋の屯倉をヤマト王権に献上し命を免れた歴史があります。この事実は、朝鮮半島・大陸との交易権を築紫の君はヤマト王権に譲渡した事と解釈される。従い、この時に阿曇族は列島各地に分派していった可能性があります。528年ですから、6世紀初頭の出来事ですね。
しかし、紀元前の頃から阿曇族は列島各地に渡航し交易拠点を作っていました。日本海沿岸から琵琶湖沿岸、そして越から東北へと交易を拡げ、糸魚川から内陸部に遡上し松本盆地に拠点を築いたのが安曇野のルーツとなります。祭神は穂高神社であり、奥穂高岳頂上に祠があり、上高地(神河内)の明神池に奥宮の穂高神社そして、安曇野市穂高に穂高神社が存在します。
以前、三内丸山遺跡を訪問した時に縄文時代には広範な交易が行われていた事実があり感動しました、即ち糸魚川の姫川の翡翠の交易品です。三内丸山遺跡まで交易されていました。その時に、ひょっとすると阿曇族が糸魚川から松本盆地に侵入し拠点を築いた理由はこの翡翠の交易品の確保ではなかったかと思いました。
阿曇族が移住した土地は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海と志賀・滋賀も含まれる可能性が高いです。
実は、私の母の旧姓は渥美で山形のカスミ町出身ですが、本拠は渥美半島だという話を聴いた事がありました。父も佐賀の海賊の末裔ですから、母方も海賊が先祖となると私は確実に由緒正しい海賊の末裔という事になりますね。
阿曇連(あづみのむらじ)の先祖はイザナギ、イザナミさんから生まれたオオワタツミ(大綿津見神)ですから、本当に古い歴史を持つ氏族であります。
志賀島で金印が江戸時代に出土していますが、阿曇族の拠点でした、志賀というと滋賀県の名前の由来ですが、琵琶湖沿岸から日本海の交易を取り仕切る息長氏も阿曇族の支族という事になるんでしょうかね。古代より、大王家に妃を多く送り込んだ氏族です。有名なのはオキナガタラシヒメ(神功皇后)、ヲホド王(継体天皇)が息長氏の血を引いています。
最近は、近江の歴史を邪馬台国の時代から評価し直す研究者が増え始めているのではないだろうか。
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