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ヤマトの東西の境

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 第10代天皇、崇神天皇の時代に疫病が蔓延した。その時にヤマトを疫病から守る為に東西の境(坂)で祭祀を行った。当時は疫病がヤマトに侵入する経路はこの東西の坂を通過して侵入すると考えられていた。ヤマトの西は二上山の北麓である香芝市の穴虫と逢坂である。現在そこの二カ所に山口神社が存在する。

 穴虫と逢坂はともに二上山の北麓にあたり、ヤマトと河内を繋ぐ交通路(穴虫峠越え)の要衡である。

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 崇神さんの時代は三輪王朝とも呼ばれ、三輪山から太陽が昇り、多神社の真上を通過し、二上山に太陽は沈む。二上山はあの世と考えられていました。

 河内へのルートとしては、二上山の北麓の穴虫・逢坂のルートと南の竹の内街道(司馬遼太郎の御母堂の実家がある場所)がありました。航空写真で判ると思います。

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 東の坂は宇陀の榛原町萩原にある墨坂である。現在、墨坂神社が鎮座しています。宇陀は神武天皇がヤマトに侵攻した時の経路でもあり、且つ、東海・関東を始め東国に通じる要衡である。

 崇神9年3月条に『赤盾8枚、赤矛8竿を以て、墨坂神を祠れ、又、黒盾8枚、黒矛8竿を以て、大坂神を祠れ』(日本書紀)とありました。疫病の侵入からヤマトを守る為です。

 盾と矛は当時の大王の宮殿や御坐船には必ず祠れていたものです。盾は特に大王のシンボルであり、宮殿や御坐船には掲げられていました。石見形立て物と呼ばれる盾は埴輪で多く出土しています。船の埴輪にもこの盾が飾られています。埴輪だけでなく、木製の石見形立て物が出土しています。

 参考 石見形立て物埴輪

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 この独特のY字形の盾と考えられる石見形立て物には何か特別の意味があるのではないか、ヤマト王権の大王のルーツに関わる謎がかくされているような疑いを持っています。先日、ペルーのナスカを訪問した時に見かけた、木製のY字形立て物はナスカの土器群と一緒に展示されていましたが、倭族の海人とナスカの先住民との間に何か関係があるのではないかと、推測しています。

 勿論、1万2千年前にベーリング海を渡ったモンゴロイドと私が考えている倭人・オホーツク海族がアリューシャン列島の海岸を経由しアメリカ大陸に渡った人々も存在したという仮説です。

 参考 宝塚古墳出土埴輪船(松阪市) 威杖と書かれているのは石見形立て物と思います。

 さて、西の大坂という言葉がその後の大坂になり、大阪へと名前が残ったと考えられています。

 古代人に坂というのは特別な意味があったようです。イザナギが死んだ変わり果てた、妻のイザナミに出会い、逃げ帰るのが黄泉比良坂(よみのひらさか)です。異界との境が坂と考えられていたんではないでしょうか。サカとサカイ、発音が似てますね。そうそう、堺という地名が大阪にありますが、土へんに界と書き、黄泉比良坂を想起させるような漢字ですね。

 関係ないけど、この前、北海道で出会ったサカイ引越センターの人と話していると、この会社のルーツは堺だそうでした。それが、会社の命名だったそうですよ。考えれば、引っ越しとは、異なる世界を行き来する行為ですね。奥の深い命名だったかも知れない。(笑)

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