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近況について

 ペルーのナスカから一気にバスで8時間乗りリマに到着し、飛行機を待ち合わせロスへ9時間程度飛行し、又、飛行機を待ち合わせ、11時間半程度飛行機に乗り成田へ到着。そして、電車に乗れば、地震があり電車がなかなか乗り継ぎ出来ず、疲労困憊で大倉山に到着したのは1週間程度前の話、だけど、疲れが蓄積し、毎日、昼も夜も寝ている。

 あんな強行軍はトルコ・エジプト紀行以来でした。本来は、昨日から伊勢神宮と吉野の桜を見学に紀行に旅立つ予定でしたが、ツアーは中止だそうです。来月上旬にニュージランドへ行く予定でしたが、不幸なクライストチャーチの災害により、計画を断念しました。

 今年の此れからの予定で決まっているのは、瀬戸内海の生口島訪問(しまなみ)に羽田出発の計画と、久しぶりにベトナムのハノイやフエなどの訪問を予定している。できれば、5月にスリランカを訪問したと思うが、瀬戸内海の生口島紀行とのスケジュール調整でどうなるか不明。

 『最近読んだ本』

 ・2週間に6冊程度の歴史関連の本を読んでいます。近所の図書館に行き毎回6冊借りて来ます。あとは、アマゾンで新刊や興味のある本を中古で安く購入して読んでいます。海外旅行の時は4冊程度は持参して、旅の途中で読んでおります。

 ・最近は埴輪に興味が魅かれたので、沢山の埴輪に関する専門書を読んでいます。大事な事は本物を数多く観る事ではないかと思います。現実に本物をまじかで観ないと感動は伝わらない。という訳で、今度は北海道から沖縄まで、ありとあらゆる古代遺跡と地方の資料館を踏破してやろうかと、野心を抱いています。

 ・埴輪に関しては、意外と関東の方が面白い埴輪が沢山存在している事が判明した。近畿中心で考えていたが、ここらで、考えを根本的に変えないといけないと感じている。先ずは関東の古墳散歩から始めたい。

 ・私は昔から、メキシコやユカタン半島の先住民の遺跡や考古博物館を歩いているが、どう考えても縄文時代の列島の人々やオホーツク沿岸のアムール川流域の人々が船で北米中米南米に渡って行ったと考えるようになった。米国在住時代にはアメリカの先住民、カナダの先住民の歴史や風俗について興味を持っていたが、単純にベーリング海が氷で繋がりマンモスを追いかけたモンゴリアンがアメリカ大陸を南下したという説に疑いを持っている。

 ・『縄文時代の商人たち』を読んでいるが、姫川の翡翠や各地の黒曜石を船で運んだ商人達が日本海沿岸に存在し、彼らは大陸とも交易をしていた訳です。三内丸山遺跡の研究は縄文時代の今迄の常識を覆した。彼らは広範囲に海を交易する海人であった事が最近になり判った訳です。

 ・司馬さんの対談集や、古本で仕入れた松本清張さんの『昭和史発掘』も読み始めています。

 『圷(あくつ)さんの話』

 ・『風土記』に関しても、『記紀』とともに関心を持って読んでいます。地名に関してですが、実は茨城県出身の圷(あくつ)さんという人と最近、大学で知り合いました。こんな苗字は初めて出会いましたが、茨城県のある村では沢山あるそうです。タレントの白石美帆さんの本名は圷(あくつ)美帆だったようです。この漢字は和製だそうで、塙(はなわ)の反対語だそうです。塙は山などがある小高い場所の事を指し、圷は逆に、川沿いの低湿地を指す言葉だそうです。土へんに高いと反対に土へんに下とは面白いです。

 ところで、この圷(あくつ)は『日本古代史 「記紀・風土記」総覧(別冊歴史読本)』「1998年3月16日発行)によれば、圷はアキツと発音し、河川の流域に多く見られる地形名で、水量豊かな肥沃地を指す言葉であると。『常陸国誌』にも「俗に低き地を指して呼ぶ名、川に沿ひたる所なり」とあるようです。

 これは、『秋津洲』、即ち孝安記の『葛城の室の秋津嶋宮に坐しまして天の下治らしめしき』と見え、又、神武紀には天皇が丘から大和国状を眺め『蜻蛉(あきつ)のとなめの如くにあるかな』と言われた事から『秋津洲』の国号が発祥したと言う。戦前の人は日本国の事を秋津洲と呼んでいました。圷(あくつ)さんの名前の背景には長い日本の歴史が存在していたのですね。

 東日本の震災は本当に厳しい試練だと思いますが、政府の特に首相が随分と責められています、色んな不手際があったので、しょうがないかもしれないが、テレビを観ると、批判ばかりしている場面や発言が多く、何で日本は纏まって国難に対処できないのか、残念です。テレビで格好良く批判ばかりしてる人はいらない。

 テレビも放映時間を削り、節電したほうがいい。世界中から暖かい支援の輪が広がっているのは、本当に嬉しいですね。パプアニューギニアや中米の貧乏な国から支援の水やお金も送られて来ている。年収3千円程度しかない国の人が今まで日本から支援を受けていた恩返しと言う。涙が止まらんですね、本当に戦後の日本は戦争をせずに平和国家を貫いてきた。その成果がでていると思います。

 日本人は優しい民族である、そんな人々が塗炭の苦しみに喘いでいる、何とか元気を与えたいと考える世界中の人々に支えられる国になっていたのが、64年間戦後を生きた人間として嬉しいです。

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