ヤマトの崇神王朝と近江の王朝は並立していた
先日、司馬遼太郎と林屋辰三郎の対談集『この国のはじまりについて』(文芸春秋 平成14年)を読んでいて、面白い説を林屋辰三郎氏が開陳していたので、メモを残す。
林屋辰三郎氏は勿論今は故人であるが、中世の芸能史に詳しいし古代史に詳しく日本学士院会員でもありました。
『崇神王朝と近江王朝並立論 概要』
・琵琶湖は日本のヘソである、琵琶湖の水運により日本海経由大陸との交易、東国の支配、北陸の支配、西国支配、宇治川・淀川・木津川経由で西国から大陸との交易、奈良盆地支配と可能な重要な日本のヘソである。
・卑弥呼の死後、男王がヤマトで王朝を建てるが、上手くゆかず、開化天皇の後裔(こうえい)は山城の南にでて、和束(わづか)を経て、琵琶湖岸の三上山の麓で新しい統一を考える。これが、開化天皇の第3皇子の彦坐王(ひこいますおう)である。
・そのあとに、景行天皇・政務天皇・仲哀天皇が近江に宮居を定めた。その間にヤマトタケルも登場した。ヤマトタケルは近江から始まった全国統一です。彼は最後に近江に帰ろうとした、建部神社は大津市内にある。
・四道将軍の話も近江が基点である、大彦命の北陸道、息子のタケヌナカワワケノミコトは東海道を通り埼玉の稲荷山古墳あたりで父の大彦命に出会う。吉備津彦も近江から西に向かった。
・崇神紀でいうとヤマトであるが、王統が二つに分かれていたと考える。
『少し、解説と背景を調べましょう』(ここからは私の意見です)
・先ず崇神天皇は開化天皇の第2皇子であり、お母さんは開化天皇の父である孝元天皇の嫁さんだったんですね。開化さんは父の奥さんも引き継ぐのが当時の慣行だったのでしょうか。崇神さんの奥さんは御間城姫(ミマキヒメ)ですが崇神さんの名前が、養子のような名前でミマキイリヒコと奥さんの家に転がり込んだような名前なんです。(笑)
・その点、彦(日子)坐王(ヒコイマスオウ)の奥さんや子供達を調べると、豪華絢爛であります。幾人か有名な子供を列挙します。
-神功皇后の曾祖父で但馬国造の祖である山代之大筒木真若王(おおつつき まわか)
-狭穂彦王(甲斐国造の祖)
-狭穂姫命(垂仁天皇の最初の皇后)
-日葉酢媛命(垂仁天皇の二番目の皇后、景行天皇の母
-等々
・景行天皇58年に近江国に行幸し、志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)に移られ崩御されたという。政務天皇も同じ宮であったようです。仲哀天皇についてはあまり、影が薄い天皇さんでした。むしろ、彦坐王を曾祖父に持つ神功皇后に光が当たっている。
・古代の最大の内戦だと森浩一さんが述べる崇神と山城の武埴安との戦争はどう捕えればいいのだろうか。武埴安は開化天皇と兄弟にあたり孝元天皇の皇子でした。山城、近江にはヤマトと戦争するだけの巨大な力が存在した事を示している。
・林屋辰三郎氏は琵琶湖が日本のヘソと考え、此処を制する事が日本を制するという考えであり、古代からその考えが存在した事を言いたいようでした。天智天皇の近江遷都も聖武天皇の恭仁京遷都も桓武天皇の山城遷都も信長の安土城も壬申の乱の関ヶ原、家康の関ヶ原、国をまとめ上げる時に必ず近江が登場しますね。
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