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三尾勢(みおせい)の内海

承前 断夫山(だんぷさん)古墳と味美(あじよし)二子山古墳

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 伊勢・尾張・三河の国に囲まれた内海を森浩一さんは『三尾勢の内海』と呼んでいる。古代より海運で繋がる文明圏を形成していたという。前回、断夫山古墳と味美二子山古墳について継体天皇との深い関係について触れました。伊勢・尾張・三河・美濃の国々がその後、天武天皇を支え、天武・持統王朝を支えた訳です。

 実は卑弥呼の時代から東海系土器は纏向遺跡で多く発掘されており、三尾勢の人々は纏向でも活躍していました。(パレス土器と呼ばれる) 彼らは、海人と呼ばれる人々であり、弥生時代から大陸・東南アジアとも交易をしていたそうです。

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 その証拠に、松阪の宝塚1号古墳の造り出し部から出土した船形埴輪は彼らが航海民である事を示し、三尾勢の内海を支配した大王の墳墓であろうと考えられています。(森浩一著 『地域学のすすめ』 岩波新書ー東海学から見えてくる新古代史像)

 しかし、見事な船形土器が特異な造り出し部(祭祀が行われた場所か)で2個、発掘されたそうだ。両端がせり上がり、王が座る場所には衣笠が掲げられ、楯形埴輪が両サイドに高く掲げられている。(森さんの話ではこの楯形埴輪の意味が未だ判らんそうです。特にY字形した石見型立物は盾だと考えられているが未だ不明。奈良県三宅町のい石見遺跡で最初に出土したので、この名前がつけられたそうです。)

 宝塚1号墳から出土した船形埴輪はどうも記紀が記録するヤマト王権への屈服儀式の様子ではなく、三尾勢の内海の王の堂々たる姿を描いていると考えられる。

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 天武天皇・持統天皇と三尾勢の内海との関係は、昨年11月に訪問した久留倍遺跡と壬申の乱ウオークで山中さんや、森さんのお話を聴き楽しかった思い出が有ります。この時に天武・持統さんが本気で信濃に遷都する考えであった事実を知りました。信濃の飯田市ですね、古代栄えた場所だそうです。

 参考記事 久留倍遺跡と壬申の乱ウオーク(2010年11月)

 ところで、三尾勢の内海と言えば、皇室の三種の神器のうち、草薙劔は断夫山古墳のそばの熱田神宮に、八咫(やた)鏡は伊勢神宮内宮に安置されていますね。草薙劔はスサノオが出雲で八岐大蛇を退治した時に尻尾から出て来た劔でした。それが、ヤマト王権に渡り、何故か熱田神宮に安置されている。

 八咫(やた)鏡は森さんの話では、九州伊都国の平原遺跡で出土した国宝の内行花文鏡ではないかと述べています。

  参考記事 邪馬台国への旅(続篇) 伊都国続編

 しかし、何故、皇室は大事な二つの神器を三尾勢の内海の場所に安置したんでしょうね。謎ですね。

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