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マチュピチュ・ナスカ紀行(27) マチュピチュ遺跡編その6

 承前 マチュピチュ・ナスカ紀行(26) マチュピチュ遺跡編その5

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 遥かマチュピチュの峰と見張り台を振り返る。

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 遺跡の城壁の中に入りました。見上げるのはマチュピチュの峰です。

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 城塞の中に石切り場があります。というか、岩盤の上に遺跡が作られてあります。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(26) マチュピチュ遺跡編その5

 承前 マチュピチュ・ナスカ紀行(25) マチュピチュ遺跡編その4

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 八雲立つマチュピチュ遺跡の空です。段々畑に座り、何時までも眺めてる人々が多いです。遥かインカの時代に想いを馳せているのでしょうか。

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 眼下のウルバンバ渓谷の川は山を下りブラジルのアマゾン川となるのです。インカの人々が最後に逃げ延びた道を示しています。

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 それでは、遺跡の中を探訪してみましょう、山を下ります。振り返ると、見張り小屋が遥か上空に見えるまで下りました。後の山はマチュピチュ(老いた峰)です。

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 人々が太陽の門を通過しようとしています。この門がマチュピチュ遺跡の入口なんです。城塞都市なんですね。

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纏向遺跡 新たに、大型建物跡発掘速報

 本日、纏向遺跡にて新たに大型建て物跡がみつかったという報道がなされた。

 読売新聞報道 『卑弥呼の宮殿建て替え? 纏向遺跡で大型建物跡

 NHKニュース 『纏向遺跡 別の大型建物存在か』

 産経新聞報道 『纏向遺跡で新たな大型建物跡』

 毎日新聞報道 『纏向遺跡 また大型建物跡』

 大型建物跡の東側で新たに柱穴が発見されたようです。問題は殆どが鉄道の下に埋もれているので、此れ以上は発掘出来ない。この鉄道は纏向遺跡の大型建物列を横切っており以前から心配でした。ここは、鉄道を地下にするか、陸橋にして上を走らせるか、日本の国の誕生に関わる重要な遺跡であり、保護と究明が求められる。

 参考 纏向遺跡 大型建物跡南土坑出土遺物

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マチュピチュ・ナスカ紀行(25) マチュピチュ遺跡編その4

 承前 マチュピチュ・ナスカ紀行(24) マチュピチュ遺跡編その3

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20114peru_393  生贄の台と呼ばれる祭壇の石です。神官が登る階段も有ります。祭壇の横には生贄を縛ったと考えられる輪っかが有ります。

誰が生贄になったか、現地のガイドさんはリャマだと言います。実はこの近くで女性の遺体が多数確認されており、女性が生贄だという説もあります。しかし、マチュピチュからスペインとの戦争に男達がマチュピチュを出て行き、残された女性達がその後生き延び、彼女達の墓だと考える事も可能です。

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 眼下にはウルバンバ川が流れています。この川はアマゾン川の源流の一つだそうです。スペインとの戦いに負けたインカの人々はアマゾンへと逃れて行ったとも考えられているそうです。

インカの文化にはアマゾンの鳥の羽根とか鉱物でも関係が深いそうです。

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 遺跡への門があり、左に巨石がゴロゴロ、石切り場です、その奥の高台が天文台です。右の建物群は技術者の人々の家と呼ばれています。痩せ尾根、両側が千尋の谷の場所に遺跡が築かれている事が判ります。

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 遺跡を見下ろす、見張り台と段々畑です。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(24) マチュピチュ遺跡編その3

 承前 マチュピチュ・ナスカ紀行(23) マチュピチュ遺跡編その2

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遺跡の上の方まで登ってきました。眼下に遺跡が拡がります。

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 段々畑が広がります。ガイドのAlexさんの話では、畑の土はマチュピチュから離れた場所から土を運んで来たそうです。マチュピチュは岩山であり土は元々無い場所なんです。何と、土を背中に担いでこの急峻な山を登って来たのです。なんという執念でしょうか。私が知る限り、確かアイルランドのあのヨードチンキの匂いのするウイスキーの故郷、アイレイ島では土が無く、海藻を敷きつめて土を作りジャガイモを植えている光景を観た記憶があります。

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 見張り台のある建て物があります。あの辺りが遺跡では一番、標高がある場所だと思います。もう少し、頑張り登って行きましょう。

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 遺跡が随分と下に見えるようになりました。下を観ると千尋の谷でおっかないです。

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近況あれこれ

 昔の記事に最近、急にアクセスがあると思ったら、テレビで島田紳助さん、という人が宮古島から今度、沖縄の無人島であるナガンヌ島で何か新しいプロジェクトを始めるという事で、私の2005年7月7日の記事が検索対象となったようです。けど、殆ど参考にならない記事だと思います。

 参考 沖縄 無人島 サンゴ礁で出来た島 ナガンヌ島

 この頃は息子が琉球大学に在学していた頃で、毎年、交響楽団の演奏会を聴く為に出駆けていました。息子のお陰で、今まで詳しく知らなかった沖縄という地域の歴史を学ぶ事が出来ました。

 参考 琉球紀行(6) 道ジュネー

 ともかく、サンゴで出来た無人島『ナガンヌ』は暑くて暑くて、日中は沖縄の人でも外には出ないという事を実感した島でした。こんな、日陰が無いところに住むのは危険だと思います。それと、サンゴ礁の島ですから、如何に汚さず、護り抜くか大事なんでしょうね。

 話は変わりますが、来月末にスリランカに行く事が決まりました。

 『スリランカ(セイロン島)』

 この島国はインドの南の端の東側にある大きな島です。子供の頃はセイロン島としてイギリスの植民地で紅茶の交易で有名な場所でした。今は、独立し民主社会主義共和国として自立している。

 実はこの国に興味が昔からあるのは、実は大野晋(すすむ)さんの日本語の起源はインド南東部にあるタミル語がきげんであるという仮説を読んで以来である。彼は、パプアニューギニアの言葉と日本語との研究からも、その共通性に着目されていた。スリランカは紀源前2世紀頃からタミル人が入植し、今でもタミル人とタミル語が公用語として使用されている国なのです。

 参考 日本語の起源 記事

 遥か紀元前の昔に、インドの先住民族はアーリア人の侵入を受け東へ南へと追いやられた。僅かにインド南東部に僅か残り、スリランカに移動し、東南アジアへと船をこぎ出し黒潮に乗り日本列島にも彼らは辿り着いたというロマン溢れる仮説なのです。

 最近、『司馬遼太郎対談集 この国のはじまりについて』(文芸春秋)を読んでいるが、大野晋さんとの対談は実に面白い、モンゴル語と関西弁に詳しい司馬さんと、東京下町生まれの大野さんの対談は面白いです。

 さて、この国には世界遺産が6個もあるんです、驚きですね。一番有名なのは5世紀の頃に活躍した王でシーギリアロックの上に宮殿を築いたカッサパ1世ではなでしょうか。一度はこの垂直の岩山の壁に描かれたエロチックな女神像と岩山の上に登ってみたいと思っていました。

 15世紀には中国は明王朝の鄭和が艦隊を率いて押し寄せ、朝貢国にした歴史も面白いです、実に東アジアと関係が深い場所でもあるのです。

 

 

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マチュピチュ・ナスカ紀行(23) マチュピチュ遺跡編その2

 承前 マチュピチュ・ナスカ紀行(22) マチュピチュ遺跡編その1

 マチュピチュが長く秘密のベールで覆われていた理由の一つに、この場所は特殊なインカ人、撰ばれたインカ人しか知らない秘密の場所であったという事です。畑の数や居住区等々の研究により700人程度しか維持出来ない生活空間だそうです。

 天文台、太陽神殿、生贄の台、巫女の館、コンドルの神殿、等々と宗教的な色彩が極めて強く、クスコやその他のインカの都市とは異なるそうです。

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 倉庫群です、向こうの山はワイナピチュ(若い峰)という山です。ちなみにマチュピチュとは老いた峰という意味で、遺跡の名前ではないそうです。

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 インカの横顔と呼ばれています。空に向かい天狗が仰向けの姿のようですね。インカの人はこの場所に特殊なパワースポットを感じたのではないだろうか。

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 真中の手前の円形の建物は太陽の神殿と呼ばれ、その手前は巫女の館とよばれています。左奥の山の上の遺跡は天文台です。

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 マチュピチュでは多くの花が栽培されていたそうです。食糧の畑だけでなく、お花畑が多く存在していたそうです。如何に、インカ人が花を愛する民族か、そしてこの場所が特殊な宗教施設であったかも物語るとされている。

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 ワイナピチュの峰ですね、此処も観光客は登る事が可能です。テラスには畑だけでなく、お花畑が多く存在していました。この峰から遺跡を観るとコンドルの姿が見えると言われています。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(22) マチュピチュ遺跡編その1

 承前 マチュピチュ・ナスカ紀行(21) マチュピチュへの道 アグアスカリエンテス

 アグアスカリエンテスの駅からベンツのバスに乗り暫くウルバンバ川沿いに下り、川を渡り一気にいろは坂のような急斜面をジグザグに登り始めます。少し踏み外せば一巻の終わりの谷底を眺め、バスは登ります。実にスリル満点のバスでの登りです。インカ時代はインカ道が存在したのでしょうが、有る日突然にマチュピチュへの道がインカの人により消されてしまいました。

 今から約100年前の1911年に米国のエール大学(Yale Univ.)の歴史家ハイラム・ビンガムにより発見された。16世紀にスペインにより滅ぼされたインカの遺跡であるマチュピチュは20世紀まで眠りについていたのです。

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 眼下にはウルバンバ川が流れています、千尋の谷とはこの風景の形容にピッタリです。

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 出現しました、マチュピチュ遺跡の一部です。しかし、何でこんな急峻な尾根に街を建設したんだろうか。これが、今でも謎とされています。

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 インカ人は天空・地上・地下と世界が三つで構成されていると信じ、天空の世界はコンドルが神として支配していると考えた。この遺跡は上空からみるとコンドルの姿をしているそうです。ひょっとすると、天空の神の世界を作ったのかも知れない。

参考 グーグルアース Machu Picchu

「machu_picchu.kmz」をダウンロード

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マチュピチュ・ナスカ紀行(21) マチュピチュへの道 アグアスカリエンテス

 承前 マチュピチュ・ナスカ紀行(20) マチュピチュへの道 オリャンタイタンボ

 オリャンタイタンボ駅から汽車に乗り、マチュピチュへの基点駅であるアグアスカリエンテス駅を目指します。約1時間半程度で到着する筈です。渓谷を走るので、大雨があると汽車は運航されないそうです、2010年1月には集中豪雨により、土砂崩れの災害で一時この鉄道は不通になりマチュピチュからヘリで観光客を救出しましたね。

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Photo_5  ウルバンバ川に沿って、汽車は標高2800メータ程度からアグアスカリエンテス駅の標高2000メータ程度まで下って行きます。

この川の流れは濁流で凄まじい流れです、観てると恐ろしい程ですね。川の中に巨石がゴロゴロで、川の流れが衝突し水しぶきを上げるのです。

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 こんな感じの濁流です。

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 アグアスカリエンテス駅に到着です。マチュピチュに行くには此処からバスに乗り標高2千メータから標高2千8百程度まで急な斜面を登る事になります。ジグザグの道です。

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20114peru_309  駅は渓谷にあります、周りは高い山に囲まれています。

此処から、バスに乗り20分程度でマチュピチュまで辿り着けます。問題は天気ですね、晴れてさえくれれば、絶景が待っていると思います。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(20) マチュピチュへの道 オリャンタイタンボ

 承前 マチュピチュ・ナスカ紀行(19) ペルー街歩き

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Photo_3  さて、いよいよマチュピチに行きましょう。クスコからペルー鉄道に乗りマチュピチュの基点駅であるアグアスカリエンテス駅まで鉄道で行く方法と、バスで丁度、クスコとマチュピチュの中間地点であるオリャンタイタンボ駅までバスで行く方法があります。我々は、安く仕上げる為に朝3時半にクスコからバスに乗りオリャンタイタンボ駅を目指した。マチュピチュをクスコから日帰りする方法です。

 クスコからバスで2時間30分程度乗ればオリャンタイタンボ駅に到着ですが、途中は山道であり舗装も無い道を通過し、標高4千メータは越える道なので、酔わない事が大事です。オリャンタイタンボは遺跡でも有名で、山の中腹には城塞が築かれ、スペインとの激しい戦争も行われた場所だそうです。今は、全て太陽の神殿も全て破壊され、石垣が残る程度です。

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 オリャンタイタンボ遺跡です、城塞の石垣が見えますね。スペインとの戦いに敗北し、インカ時代の栄華の跡は全て消し去られたという。

今も、麓には村があります、マチュピチュに行く人は、クスコではなく此処に宿をとってもいいと思います。標高2800メータ程度ですから、クスコよりは安全だと思います。

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 マチュピチュ行きの汽車を待つjoです。朝6時頃です、今日は朝2時過ぎから起きていますよ。

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20114peru_286  鉄道ファンの人には、たまらないでしょうね。何とも抒情のある風景です。

スイスでもノルウエーでもドイツでもイギリスでも鉄道の旅は素晴らしいです。

 マイフォト オリャンタイタンボ 写真集

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マチュピチュ・ナスカ紀行(19) ペルー街歩き

 承前 マチュピチ・ナスカ紀行(18) インカの首都クスコ編 サクサイワマン遺跡

 乗り物ですが、東南アジアでよくみかける『チクロ』のようなものを沢山見かけました。

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 オートバイを改造した三輪車ですね。

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 これも三輪車ですが、リマで見かけたタクシーです。

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 巨大な乗り合いバスです。昔、子供の頃、日本でも走っていたような記憶があります。

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 ナスカの帰りのイカの街の風景です。ひまわりがアイスキャンデーを食べています。

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朝ドラ『おひさま』のある青春のシーン

 今度の朝ドラは舞台が信州・安曇野であり美しい山々とアルプスの清らかな伏流水の画面が清らかで清々しい。

 私も大学生のワンゲルの時代から年に何回も松本を基点に活動していました。松本の駅に行くと関西のワンゲルの仲間と出会うような日々を送っていた。卒業後はラジコンクラブの『赤とんぼ』の年に3回の岩岳の山小屋での合宿に参加し、かれこれ35年以上も白馬村に世話になっています。

 『おひさま』で陽子ちゃんが友人二人と兄の通う旧制松本高校を訪問する場面がありました。とても懐かしく感じて感動していました。その理由は、私が高校生の時代に大好きで読んでいたのが、北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』だったからです。

 当時の大学受験を控えていた頃の私にとり、北杜夫さんの旧制松本高校時代の生活は憧れの的でした。寮の2階からオシッコはするし、ハチャメチャな生活が描かれていた。自分も大学に行けばあのような面白いハチャメチャな生活が出来るんだと、夢に描いていた時代が思い出されました。

 丁度、映画『ダウンタウン・ヒーローズ』のようなバンカラな世界に憧れていたんですね。そもそも、女子学生を寮に入れるなんて、あり得ない話だと思いますが、テレビでは放映していました。先ず、臭くて女性は当時の旧制高校の寮には入れないと思います。

 テレビドラマでは若尾文子さんの語りが落ち着いて、美しい信州の風景と重なり日本画の世界を作り上げています。主人公の行動を観ていると、何故か、明治生まれの母を思い出します、多分、私の母も明治生まれですが、山形ではオテンバだったのではないかと思い、ダブらせて観ていました。

 私が高校生の時代、北杜夫と遠藤周作が大好きで読みふけっていました。二人とも、いたずらが大好きで、ひょうきんな人生模様を描いており私は理想の人間のように思っていました。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(18) インカの首都クスコ編 サクサイワマン遺跡

 承前 マチュピチ・ナスカ紀行(17) インカの首都クスコ編 12角石

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Photo_2  今回は、クスコの街を眼下にする標高4千に近い山の上にあるサクサイワマン遺跡(Saqsaywaman)と祭祀跡のケンコ遺跡(Qenqo)の紹介です。

サクサイワマン遺跡は1438年に建造が開始され、50年程度の歳月をかけて完成した祭祀施設と城壁に囲まれた宮殿でした。クスコ奪還の最後の戦いでインカの兵2万が立て籠もりスペイン軍200と戦うが夜襲をかけられ、敗北したという古戦場でもあります。

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 300メータ程の細長い空間を挟んで、片側には写真のような3段の石垣の上に宮殿と思われる建て物があり、片側にも3段の石垣の上に宗教施設らしいものが建造されていた。

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 巨石を使いノコギリの歯のようなギザギザの形状で砦の石垣を建造している。真田丸が沢山あり、石垣に伏兵を忍ばせる戦略も可能だと思います。防御をかなり意識した城壁の作り方ではないだろうか。

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 この11角の巨石は360トンあるそうですが、これも山を越え運んで来た巨石を加工した。まさにインカの民は石とともに存在した世界でした。

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20114peru_188_2  これが、アステカ・マヤの世界であれば、この広場に球戯場を建設したと思います。インカでは片側を宮殿・城塞とし片側に祭祀場を建設した。

築造が3段の石垣で出ていますが、コンドルの空の世界、ピューマの地上の世界、蛇の地下の世界を表しているそうで、日本の前方後円墳の箸墓古墳に代表される3段築造の世界と通じる話は前回しましたね。

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 夕暮れが迫ってきましたね。

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 クスコの街が眼下に広がります、標高4千近いので、駆け足は禁物です。

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ヤマトの崇神王朝と近江の王朝は並立していた

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 先日、司馬遼太郎と林屋辰三郎の対談集『この国のはじまりについて』(文芸春秋 平成14年)を読んでいて、面白い説を林屋辰三郎氏が開陳していたので、メモを残す。

 林屋辰三郎氏は勿論今は故人であるが、中世の芸能史に詳しいし古代史に詳しく日本学士院会員でもありました。

 『崇神王朝と近江王朝並立論 概要』

 ・琵琶湖は日本のヘソである、琵琶湖の水運により日本海経由大陸との交易、東国の支配、北陸の支配、西国支配、宇治川・淀川・木津川経由で西国から大陸との交易、奈良盆地支配と可能な重要な日本のヘソである。

 ・卑弥呼の死後、男王がヤマトで王朝を建てるが、上手くゆかず、開化天皇の後裔(こうえい)は山城の南にでて、和束(わづか)を経て、琵琶湖岸の三上山の麓で新しい統一を考える。これが、開化天皇の第3皇子の彦坐王(ひこいますおう)である。

 ・そのあとに、景行天皇・政務天皇・仲哀天皇が近江に宮居を定めた。その間にヤマトタケルも登場した。ヤマトタケルは近江から始まった全国統一です。彼は最後に近江に帰ろうとした、建部神社は大津市内にある。

 ・四道将軍の話も近江が基点である、大彦命の北陸道、息子のタケヌナカワワケノミコトは東海道を通り埼玉の稲荷山古墳あたりで父の大彦命に出会う。吉備津彦も近江から西に向かった。

 ・崇神紀でいうとヤマトであるが、王統が二つに分かれていたと考える。

 『少し、解説と背景を調べましょう』(ここからは私の意見です)

 ・先ず崇神天皇は開化天皇の第2皇子であり、お母さんは開化天皇の父である孝元天皇の嫁さんだったんですね。開化さんは父の奥さんも引き継ぐのが当時の慣行だったのでしょうか。崇神さんの奥さんは御間城姫(ミマキヒメ)ですが崇神さんの名前が、養子のような名前でミマキイリヒコと奥さんの家に転がり込んだような名前なんです。(笑)

 ・その点、彦(日子)坐王(ヒコイマスオウ)の奥さんや子供達を調べると、豪華絢爛であります。幾人か有名な子供を列挙します。

 -神功皇后の曾祖父で但馬国造の祖である山代之大筒木真若王(おおつつき まわか)

 -狭穂彦王(甲斐国造の祖)

 -狭穂姫命(垂仁天皇の最初の皇后)

 -日葉酢媛命(垂仁天皇の二番目の皇后、景行天皇の母

 -等々

 ・景行天皇58年に近江国に行幸し、志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)に移られ崩御されたという。政務天皇も同じ宮であったようです。仲哀天皇についてはあまり、影が薄い天皇さんでした。むしろ、彦坐王を曾祖父に持つ神功皇后に光が当たっている。

 ・古代の最大の内戦だと森浩一さんが述べる崇神と山城の武埴安との戦争はどう捕えればいいのだろうか。武埴安は開化天皇と兄弟にあたり孝元天皇の皇子でした。山城、近江にはヤマトと戦争するだけの巨大な力が存在した事を示している。

 ・林屋辰三郎氏は琵琶湖が日本のヘソと考え、此処を制する事が日本を制するという考えであり、古代からその考えが存在した事を言いたいようでした。天智天皇の近江遷都も聖武天皇の恭仁京遷都も桓武天皇の山城遷都も信長の安土城も壬申の乱の関ヶ原、家康の関ヶ原、国をまとめ上げる時に必ず近江が登場しますね。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(17) インカの首都クスコ編 12角石

 承前 マチュピチ・ナスカ紀行(16) インカの首都クスコ編 アルマス広場

 アルマス広場から『12角石』があるという場所まで歩いて行きましょう。

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 インカ時代の石垣が残るクスコの街を歩きます。偶然に平和の鳩が路地の空を飛んで行きました。

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 この路地に12角石はあるそうです。

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 これが、『12角石』と呼ばれる石垣の石です。カミソリの刃が入らない緻密な石の加工と積み上げです。鉄器も銅器も車輪も持たなかったインカの石工はこんな精巧な石の加工と石組をしました、石は最も硬いと言われる花崗岩ですよ。

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路地から仰ぐクスコの空が青い、まばゆいくらいだ。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(16) インカの首都クスコ編 アルマス広場

 承前 マチュピチュ・ナスカ紀行(15) インカの首都クスコ編 (続)サント・ドミンゴ教会

 クスコの中央広場の御案内です。スペイン統治後はアルマス広場(武器広場)と呼ばれている。スペイン人がこの広場で武器を自慢して展示していたんでしょうね。インカ時代もこの場所は重要で『ワカイバタ』と呼ばれ、冬至の日には『インティライミ』(太陽の祭り)が行われ、インカ皇帝は太陽の神殿である『コリカンチャ』から輿に乗りこの広場に来て、来年の豊作を祈ったそうだ。インカ中から人々はこの広場に集まり、トウモロコシから醸造した酒(チチャ)を飲み、太陽の息子の皇帝は儀式を進行しリャマを生贄にして太陽に捧げたという。

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 カテドラル、大聖堂です銀300トンを使用した祭壇で有名ですね。本来は、『ビラコチャ神殿』が建っていたのを破壊してスペインが建造した。

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 『ラ・コンパーニャ・デ・ヘスス教会(イエズス会)』ですが、これも、インカ時代の『ワイナ・カバック宮殿』を壊してその上にスペインが建造した教会である。

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 標高3400メータはありますから、空の色が日本アルプスに登った時のように清々しい。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(15) インカの首都クスコ編 (続)サント・ドミンゴ教会

 承前 マチュピチ・ナスカ紀行(14) インカの首都クスコ編 サント・ドミンゴ教会

 インカの『コリカンチャ』(太陽の神殿)の続編です。

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 神殿の部屋の入口は安定した台形で壁面も内側に少し傾いて建造されている。

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 生贄を捧げる台がある神殿です。動物が捧げられたと思います。アステカでは人間の心臓を捧げる事がありましたが、インカでは動物だと聞いています。

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20114peru_098  曲面のある石垣の構造を説明するガイドのAlexさんです。未だに石の加工方法は完全に判っていないが、石で石を叩きぴたりと接合するようになるまで加工したそうです。石積については、世界最高峰の技術が使われているという。エジプトのピラミッド技術、日本の城の石垣のアノウ衆、皆さん集まり歴史的なシンポジウムが時代を越えて行われると面白い。

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 太陽の神殿から庭を見下ろしたところです。

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 クスコの街が一望出来ます。インカの時代に最後の王となったアタワルバもこの景色を観ていたのでしょうね。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(14) インカの首都クスコ編 サント・ドミンゴ教会

 承前 マチュピチ・ナスカ紀行(13) インカの首都クスコ編 リマからクスコへ

 さて、インカ時代から現在もクスコで一番大事な場所から始めましょう。インカの時代に太陽神殿『コリカンチャ(Qoricancha=黄金の有るところ)』が存在した場所です。スペインのピサロに征服されたあと、この黄金の神殿から金を剥がしとり、太陽神殿の基礎の上に教会を建造しました、それが、サント・ドミンゴ教会です。

 マイフォト インカの首都クスコ 写真集 詳しくは写真集を観て下さい。

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20114peru_057  少し小高い場所にあります、石垣の土台部分は『コリカンチャ』の石垣です。上部の教会の建物はスペインが征服後に建てました、が、今まで二度の大地震に遭遇し教会の建物だけは完全に破壊されたそうです。

如何に、インカ時代の石組工法が耐震性がある建造物であるかを歴史が示しているのです。

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 見事な曲面を持つインカ時代の精巧な石組みではないでしょうか。多分、13世紀か14世紀頃のインカ時代に建造されたと思います。今でもびくともしていない。

 それに比較し、スペインの建造技術は耐震性が貧弱な工法である事が判ります。インカの石積工法では日本の伝統的な木造建築で使用されるアーキテクチャである『貫』も使用しているそうです。柱材を貫く横木の組み立て手法ですね。

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 サント・ドミンゴ教会の入り口です。

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 教会の中庭です、周りをスペインが建造した回廊が取り巻いています。これらは全てインカ時代の太陽の宮殿の上に建築されました。しかし、庭の真中に井戸がありますね、これはインカ時代から存在する井戸だそうで、昔は黄金が貼られていた井戸だそうです。

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マチュピチ・ナスカ紀行(13) インカの首都クスコ編 リマからクスコへ

 承前 マチュピチュ・ナスカ紀行(12) ペルーの海岸線

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 さて、今度はインカの首都、標高3360メータのクスコの御紹介です。日本からロスに飛び、飛行機をLAN航空に乗り換え8時間半をかけてリマ空港へ、そして、又、飛行機を乗り換えリマからクスコへ1時間半程度の飛行機でやっと到着です。長い、長い日本からの旅となりました。元気な60代までに旅行をしておきたい場所です。

 マイフォト インカの首都クスコ 写真集

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20114peru_024  クスコ上空からの眺めと空港の様子です。山に囲まれた盆地地形の場所です。標高が高いので、急ぎ足、大声厳禁です、急激なリマという太平洋沿岸の標高の無い場所からの移動です、十分に注意が必要です。

 クスコとはケチュア語でヘソという意味だそうです。街全体がピューマの形をしているそうです。インカ時代は1200年からスペインのフランシス・ピサロに滅ぼされる1532年まで、インカ帝国の首都として栄えた場所です。

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 クスコはインカ人が帝都を築く前は、キルケ人が900年から1200年の期間都として住んでいました。空港にはインカの黄金の仮面が飾られています。

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20114peru_041  空港からホテルに向かいます。成田空港から28時間くらい経過したでしょうか。地球の裏側まで来ちゃいました。

バスに乗りクスコ市内のホテルに向かいます。もう黄昏が迫る時間になっていました。

何故こんな標高のある場所にインカ帝国は都を築いたのだろうか。

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 クスコ市内ですが、左の柱には虹の模様が彩色されています、これはインカ帝国の旗なんです。

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東急東横線古墳散歩 綱島駅界隈 『綱島古墳』

 承前 東急東横線古墳散歩 多摩川駅界隈 3世紀関東にも前方後円墳は存在したか

 私が35年以上住んでいる大倉山駅は東急東横線にあります。沿線の古墳について紹介するシリーズになります。前回は、多摩川駅界隈の田園調布古墳群(荏原古墳群の一部)を探訪しましたが、今回は綱島駅界隈です。

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20114ookurayama_003  綱島駅西口を下車し、北に300メータ程度ほど歩くと綱島公園があります、小高い丘なので息が切れますが、頑張って登ります。

私は、大倉山の自宅から自転車で鶴見川堤防をサイクリングしながら到着です。

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20114ookurayama_007  横浜市の市指定史跡だそうですが、径20メータ、高さ3メータの円墳であるとあります。出土遺物から5世紀後半から末葉ではないかと記録されています。

 平成元年に発掘調査がなされたようで、墳頂部には木棺直葬(槨が無く直接土中に木棺を納める)で鉄刀・刀子・鉄鏃などの副葬遺物が出土したそうです。

しかし、ひょっとするとホタテ貝式前方後円墳だっtら可能性もありそうです。

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 出土遺物ですが、須惠器甕は関西方面で馴染の形状をしていると思います。

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20114ookurayama_010  発掘時のトレンチの跡ですね。以前に茶店『桃里庵』が建築されていた部分は延長すると前方部ではないかと推測されないでしょうか。

 5世紀という時代に径20メータの大規模な古墳を建造するとすれば、前方後円墳ではなかったかと私は思いました。

 須惠器の甕もヤマト王権の地域の形状に似ています。

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 この場所に茶店が建造されていた訳です。

さて、鶴見川の河口近くで覇権を握った王の墓なのか、地元の人が古来より『ちょうしん塚』と呼ばれているそうなので、ひょっとすると勅使、即ち王権から派遣された偉い人の墓だったかも知れない。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(12) ペルーの海岸線

 承前 マチュピチュ・ナスカ紀行(11) ナスカ滞在記

 リマとナスカの距離は450キロ程度あります、パンアメリカンハイウエイをバスで移動して8時間はかかります。海岸から内陸にかけて乾燥地帯が広がり砂漠です。私が昔住んでいたカリフォルニアも同じで、砂漠をアメリカ人は人が住めるようにシェラネバダ山脈からの伏流水を利用し灌漑し、水を撒いて緑の大地を人工的に作った街なのだ。

 サンフランシスコからサンノゼは自然に任せると砂漠地帯なのだ。多くのカリフォルニアの西海岸は砂漠地帯であり、今は、緑豊かに思えるが何もしないとペルーのような砂漠地帯となる。如何にアメリカ人は頑張って国土を開拓したか、昔のアメリカ人の凄さを忘れている。

 リマとナスカの往復16時間をバスで経験し、砂漠地帯の風景を確認した。その時に、アメリカがメキシコと戦争し獲得したカリフォルニア西海岸の現代の風景と、獲得した時代の風景をペルーの西海岸を走りながらダブらせた。

 アメリカ人は今は世界中で憎まれているが、本来は堅実で真面目で質実剛健な田舎者の集まりなのだ。彼らは、昔、カリフォルニアの砂漠を人が住める緑の大地に改造開拓した人々なのだ。今、ペルーはそれに挑戦している。

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 今、ペルーでは政府が管轄する海岸の砂漠地帯に5年間、不法占拠したら、自分の土地として認める政策を進めている。砂漠地帯に小さな木造の小屋を建設し3年目あたりから、日干しレンガで家を建造し自分の土地にする人々が増え始めた。5年目になると国は電気を引いてくれるそうだ。

 又、大規模な鶏舎を営む業者が海岸の砂漠地帯に進出し、事業を大規模に展開している。電気も無い場所でどうやって鶏舎を運営しているんだろうか。水はアンデスの地下水を利用していると思います。

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 時折、こんな綺麗な街があり驚きます。

 海岸近くはサンフランシスコと同じで、霧が立ち込め涼しいです。アメリカ大陸の西海岸は北から寒流が海岸線を流れているので、このような霧が立ち込める風景が多く見られる。

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20114peru_583  ナスカに移動してる時に食事した素敵な海岸線にあるレストランで昼食です。

私は、アメリカ時代を思い出し、ハンバーガー、家内は魚料理を注文していました。

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20114peru_590  丁度、ペルーでは大統領選挙の終盤でした。帰国の日が投票日だったと思います。従い、ナスカに向かった日から三が日は公共の場では飲酒禁止でした。レストランでも酒の販売は禁止です。

リマからナスカへ向かう地帯では圧倒的に日本国籍のフジモリ元大統領の娘のケイコさんが圧倒的に人気です。ガイドさんの話では、昔この地帯で大規模な地震があり、その日にフジモリ大統領は駆け付け、被災者の為に住宅を建造する約束をし、それを守ったといいます。今でも、リマからナスカにかけての砂漠地帯の貧乏な人々はその恩を忘れず、娘のケイコさんを大統領に推挙してるそうです。

 先日、投票は終わり、現職大統領とケイコさんの二人は残り、決戦投票になる予定だと聞いています。日本人はリマでも尊敬されているそうです。

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近況について

 ペルーのナスカから一気にバスで8時間乗りリマに到着し、飛行機を待ち合わせロスへ9時間程度飛行し、又、飛行機を待ち合わせ、11時間半程度飛行機に乗り成田へ到着。そして、電車に乗れば、地震があり電車がなかなか乗り継ぎ出来ず、疲労困憊で大倉山に到着したのは1週間程度前の話、だけど、疲れが蓄積し、毎日、昼も夜も寝ている。

 あんな強行軍はトルコ・エジプト紀行以来でした。本来は、昨日から伊勢神宮と吉野の桜を見学に紀行に旅立つ予定でしたが、ツアーは中止だそうです。来月上旬にニュージランドへ行く予定でしたが、不幸なクライストチャーチの災害により、計画を断念しました。

 今年の此れからの予定で決まっているのは、瀬戸内海の生口島訪問(しまなみ)に羽田出発の計画と、久しぶりにベトナムのハノイやフエなどの訪問を予定している。できれば、5月にスリランカを訪問したと思うが、瀬戸内海の生口島紀行とのスケジュール調整でどうなるか不明。

 『最近読んだ本』

 ・2週間に6冊程度の歴史関連の本を読んでいます。近所の図書館に行き毎回6冊借りて来ます。あとは、アマゾンで新刊や興味のある本を中古で安く購入して読んでいます。海外旅行の時は4冊程度は持参して、旅の途中で読んでおります。

 ・最近は埴輪に興味が魅かれたので、沢山の埴輪に関する専門書を読んでいます。大事な事は本物を数多く観る事ではないかと思います。現実に本物をまじかで観ないと感動は伝わらない。という訳で、今度は北海道から沖縄まで、ありとあらゆる古代遺跡と地方の資料館を踏破してやろうかと、野心を抱いています。

 ・埴輪に関しては、意外と関東の方が面白い埴輪が沢山存在している事が判明した。近畿中心で考えていたが、ここらで、考えを根本的に変えないといけないと感じている。先ずは関東の古墳散歩から始めたい。

 ・私は昔から、メキシコやユカタン半島の先住民の遺跡や考古博物館を歩いているが、どう考えても縄文時代の列島の人々やオホーツク沿岸のアムール川流域の人々が船で北米中米南米に渡って行ったと考えるようになった。米国在住時代にはアメリカの先住民、カナダの先住民の歴史や風俗について興味を持っていたが、単純にベーリング海が氷で繋がりマンモスを追いかけたモンゴリアンがアメリカ大陸を南下したという説に疑いを持っている。

 ・『縄文時代の商人たち』を読んでいるが、姫川の翡翠や各地の黒曜石を船で運んだ商人達が日本海沿岸に存在し、彼らは大陸とも交易をしていた訳です。三内丸山遺跡の研究は縄文時代の今迄の常識を覆した。彼らは広範囲に海を交易する海人であった事が最近になり判った訳です。

 ・司馬さんの対談集や、古本で仕入れた松本清張さんの『昭和史発掘』も読み始めています。

 『圷(あくつ)さんの話』

 ・『風土記』に関しても、『記紀』とともに関心を持って読んでいます。地名に関してですが、実は茨城県出身の圷(あくつ)さんという人と最近、大学で知り合いました。こんな苗字は初めて出会いましたが、茨城県のある村では沢山あるそうです。タレントの白石美帆さんの本名は圷(あくつ)美帆だったようです。この漢字は和製だそうで、塙(はなわ)の反対語だそうです。塙は山などがある小高い場所の事を指し、圷は逆に、川沿いの低湿地を指す言葉だそうです。土へんに高いと反対に土へんに下とは面白いです。

 ところで、この圷(あくつ)は『日本古代史 「記紀・風土記」総覧(別冊歴史読本)』「1998年3月16日発行)によれば、圷はアキツと発音し、河川の流域に多く見られる地形名で、水量豊かな肥沃地を指す言葉であると。『常陸国誌』にも「俗に低き地を指して呼ぶ名、川に沿ひたる所なり」とあるようです。

 これは、『秋津洲』、即ち孝安記の『葛城の室の秋津嶋宮に坐しまして天の下治らしめしき』と見え、又、神武紀には天皇が丘から大和国状を眺め『蜻蛉(あきつ)のとなめの如くにあるかな』と言われた事から『秋津洲』の国号が発祥したと言う。戦前の人は日本国の事を秋津洲と呼んでいました。圷(あくつ)さんの名前の背景には長い日本の歴史が存在していたのですね。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(11) ナスカ滞在記

 承前 マチュピチュ・ナスカ紀行(10) ナスカの織物そのⅡ(Majoroホテルにて) 

 ナスカに一泊しました、幾つかの思い出を記録します。

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20114peru_671  朝の目覚めは孔雀の鳴き声で目が覚めます。このナスカの空港から車で5分程度の距離にあるMajoroホテルの名物だそうです。

宿泊客が孔雀に餌を与えるので、住みついてしまったのか、ホテルが管理してるのか判りません。ともかく、我が物顔でプールのそばから、コテージ風の宿泊施設の周りを朝早くから歩いています。

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20114peru_625  雰囲気でいいますと、アンコール・ワットを訪問した時に宿泊したホテルの雰囲気に気候を含め似ていました。

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20114peru_628  ただ、寝る時に電気蚊取り線香をセットして寝ないと、蚊に刺されるようです。熱帯ですから、しょうがないですよね。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(10) ナスカの織物そのⅡ(Majoroホテルにて)

 承前 マチュピチ・ナスカ紀行(9) ナスカの織物そのⅠ(Majoroホテルにて)

 ナスカの織物の続篇です。

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20114peru_667  狩猟の場面ですね、網に小動物を追いこんでいる様子です。投げ槍を投げている人もいます。角を観ると鹿のように見えますがどうでしょうか。

 彼らは海で漁業もし、狩猟も農耕も行う民族だったようです。

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 戦争捕虜の処刑の場面ではないかと想像します。右上の兵士が勝利者の兵士で縄で繋がれているのが敗者で、逃げてるのも敗者だと思います。敗者達は幾人も縄で繋がれ鳥の餌食となっています。

 画面に前方後円墳の形をした図案が散らばっているのが気になります。壺のようでもありますが、まさか3世紀の日本の神仙思想の箸墓古墳のあの世の形と呼ばれる前方後円墳の壺形宇宙を表しているんではないでしょうね。同時に、顔が幾つも散らばっているが、これは首狩りの風習を示していると思います。彼らは、殺して首を刎ね口が開かないようにして持ち歩いたそうだ。

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20114peru_663  生きたまま、禿たかの餌食にさせたのでしょうか。意外とナスカの人々は残酷だったようですね。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(9) ナスカの織物そのⅠ(Majoroホテルにて)

 承前 マチュピチュ・ナスカ紀行(8) ナスカ土器(イカのホテルにて)

 前回はナスカの土器文化について触れましたが、今回は織物に描かれた世界を観てみましょう。ナスカで宿泊したホテル 『Majoro』の食堂の壁に飾られていたナスカの織物を紹介します。

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 最初は太陽の神と思いましたが、良く見ると海の世界ではないでしょうか。空には鳥が飛び海の生き物に取り囲まれているような気がします。

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20114peru_647  まさに、海で魚を釣っています。テルテル坊主みたいなひょうきんな海の生物は何でしょうか、エイかも知れませんね。最初は鵜飼いと思いました。空には鳥山のように鳥が飛び漁の様子を描いており、ナスカの人々が海で生活する面をもっていた事を示しています。

彼らは海から豊かなアンデスの水を求めナスカの台地から渓谷に進出して来たのではないだろうか。

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  ナスカの地上絵に描かれたクモが3匹織られています。3という数字はマチュピチュのインカの時代には重要な数字であったようです。ナスカの時代から3匹のクモは奇瑞の数字であった可能性がありますね。

しかし、デフォルメされた黒いクモは何でしょうか。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(8) ナスカ土器(イカのホテルにて)

 承前 マチュピチュ・ナスカ紀行(7) パルパの地上絵

 ナスカから車で2時間半リマに向かい北上すると、イカというリゾートビーチで有名なそして、ワイン生産で有名な大きな街があります。リマから小型の飛行機で40分程度の場所でもあり、小さな飛行場があります。今はナスカにも小さな飛行場が出来ましたが、昔はイカから軽飛行機に乗り20分程度でナスカの地上絵を見学できました。勿論今でも、可能です。

 この場所に、有名な 『Las Dunas』というホテルがあり、日本人客にも馴染です。このホテルにナスカの土器が展示されていましたので、掲載します。本格的にはイカで考古学博物館に行かれるのがベストでしょうね。私のツアーでは時間が無く、カットでした。(涙)

 参考 マイフォト ナスカ土器と文化 写真集

 参考 イカの博物館 訪問記1 訪問記2 訪問記3

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 双注口土器と呼ばれるナスカの土器です。舌を出したアーモンドアイの人面、身体はヒズメを持つ動物のような格好の神でしょうか。と思いましたが、違いますね、人間の姿した神の舌から色んな生物を生み出している絵なのかも知れない。

 舌を出す構図はマヤやアステカ、オアハカの文化でも観られる構図だと思います。

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 可愛いいハチドリでしょうか、身近なナスカの人には身近な鳥が愛くるしく描かれている。

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 これ、大笑いですね、人面口縁壺でパンパンのお腹を抱えています、見事なユーモアのある土器です。

 

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マチュピチュ・ナスカ紀行(7) パルパの地上絵

 承前 マチュピチ・ナスカ紀行(6) ナスカ地上絵編 地上から眺める

 ナスカからパンアメリカンフリーウエイを北上し、リマに向かいました。走り始めてしばらくして、時間があるので、もう一箇所地上絵を観ましょうという事になった。パルパの地上絵と呼ばれているそうです。

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 山の斜面に4人の像が彫られていますね。家族の地上絵とも呼ばれているそうです。これは、ナスカの地上絵よりも年代は古いそうで、紀元前600年頃から紀元後200年頃の按配で記録されたのではないかと考えられているそうです。

 左端は長い鳥の羽のようなものを左右に頭から伸びています。左から二番目が一番重要そうですが、でかい顔で後光が差しているように見えます、まるで太陽の化身のようです。

 右端の二人は小さく描かれているので、子供のようだから家族という名前が命名されたのかもしれない。しかし、多分違うでしょうね。此処に描かれたのは神話の世界でしょうね、ナスカでも山の斜面に大きく描かれた宇宙人がいましたが、多分、このパルパの山の斜面の絵の系統を引いているように感じました。

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 4名の像から離れた少し上にこんな地上絵も有りました。可愛いい地上絵ですね。

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 『ナスカの横顔』と呼ばれる岩です。なかなかの男前ではないだろうか。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(6) ナスカ地上絵編 地上から眺める

 承前 マチュピチ・ナスカ紀行(5) ナスカ地上絵 (続々)飛行機から眺める

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 パンアメリカンハイウエイ(アメリカ太陸縦断高速道路)傍の、高み櫓です。マリア・ライへがこの場所で櫓に登り地上絵を研究していた。

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 荒涼とした砂漠です。白い砂の上に黒い石が覆う台地なのです。この黒い石を取り除き白い線を浮かび上がらせ、地上絵を描きます。

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 櫓から眺める木の地上絵です。

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 櫓から眺めた手の地上絵です。直ぐ、近くなのだ。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(5) ナスカ地上絵編 (続々)飛行機から眺める

 承前 マチュピチ・ナスカ紀行(4) ナスカ地上絵編 (続)飛行機から眺める

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 螺旋模様ですね、井戸ではないかと考えられているそうです。渦巻き状に地下へ掘り進んで行くのですね。農耕に必要な水神信仰ではないでしょうか。

 参考 山形大学広報紙 ナスカの地上絵の謎を解き明かす

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 フラミンゴもしくはペリカン、サギを描いたと考えられています。ですが、首の途中で写真は切れてしまいました。首の先の写真も掲載します。20114peru_820

20114peru_852  実際はこんな模様です、やたら首が長い鳥です。しかし、何故こんな長い首の鳥を描いたのだろうか。ろくろ首みたいな鳥です、きっと何か信仰・願いがあると思います。

 謎ばかりが深まるばかりです、それがナスカの地上絵ではないでしょうか。

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 此れは鳥ですが、足が無いので鳥を上から観た姿ですね。大形の鳥であると思います。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(4) ナスカ地上絵編 (続)飛行機から眺める

 承前 マチュピチュ・ナスカ紀行(3) 北米大陸に移動したのは誰か

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 此れは犬ともキツネとも呼ばれています。尻尾が二本あるのが不思議ですが、元気なところを表現したのか、それとも全ての地上絵は一筆書きですから、アプローチの線が一つの尻尾なのかも知れない。今にも飛びかかろうとする動きのある姿は見事です。

 犬もキツネも農耕民にとり重要な仲間だったようです、キツネは農耕を邪魔する小動物を駆除してくれるそうです、だから大事な仲間なんでしょうね。

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 お馴染み、ハチドリです。ナスカ近辺ではハチドリが飛びまわっています、とても身近な鳥ではないでしょうか。嘴からアプローチが始まるのも面白いですね。

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 クモです。上手に一筆書きで描かれていると思いませんか。クモは空中に網を張り獲物を獲る生き物ですね。タランチュラだと怖いですが、このクモは何なんでしょうね。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(3) 北米大陸に移動したのは誰か

 承前 マチュピチュ・ナスカ紀行(2) ナスカ地上絵編 飛行機から眺める

 ところで、ナスカの地上絵から離れますが、カナダ・アメリカの先住民やメキシコ、中米マヤ、南米インカの人々の先祖は本当に12000年前の氷河期が終わった頃に、マンモスを追いかけベーリング海を渡ったユーラシアのモンゴル族なんでしょうか。当時はユーラシア大陸と北米大陸は氷で接続されていたと言います。

 私は、以前からこの説に疑問を持っています。私が考える可能性は、オホーツク海沿岸で文化・文明圏を形成していたオホーツク人がアリューシャン列島の沿岸沿いに航行し北米大陸に上陸ししていた可能性と日本列島の縄文人が千島列島からアリューシャン列島を経由して北米大陸に上陸していた可能性が現実的な歴史ではないだろうかと考えています。

 数年前にノルウエーの北極圏を訪問した時に、アルタの岩絵を見学した。一万年以上前に欧州の北岸を船で航行していた、エスキモーの先祖のモンゴリアンが存在した。人々が移動したのは大陸を歩くのではなく、船で航行していた。どうも、欧州の学者さんは人間の移動は大陸を歩いて移動すると考えるようですが、本来は、船で移動していたと考える方が素直だと思う。

 何時の日か、考古学者がオホーツク文化圏の土器や人骨とアメリカ大陸の先住民の遺物と連続性を見つけてくれるかも知れない。そして、又、縄文人の土器や人骨、遺物がアメリカ大陸で発見される日が来る事を信じている。

 マンモスを追いかけてユーラシアのモンゴル族がベーリング海を渡るのもいいけど、それでは、具体的にマンモスを追いかけたモンゴル族の狩猟道具やマンモスの骨や遺物は発見されているんでしょうか。確か、骨に細かい黒曜石をカミソリの刃のように埋め込んだ狩猟道具はオホーツク文化圏の人々も使用していました。

 私は入墨をする風習や首狩りの風習がアメリカ先住民に存在するが、メキシコでもそのように理解している。これは、海を生活の場としてきた日本列島に住む海の民の習俗ではないかと考えています。昔、西部劇を観てるとアメリカ先住民が顔に派手な歌舞伎模様を描いていたが、入墨の風習の残影であると考えていた。埴輪の顔を観れば同じです。

 今迄、アメリカ原住民の歴史やアステイカ、マヤ、インカ文明を研究してきた学者は殆どが西洋の学者である。しかし、西洋の考えで彼らの歴史や精神構造を解明する事は困難ではないかと思います。モンゴリアンの歴史はモンゴリアンの血を引く人々が自分達の歴史として取り組まねばならない。西洋人からみれば、文化人類学であり我々モンゴリアンからすれば、自分達仲間の『歴史』なんです。

 

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マチュピチュ・ナスカ紀行(2) ナスカ地上絵編 飛行機から眺める

 承前 マチュピチュ・ナスカ紀行(1) ナスカ地上絵編 ナスカへの憧れ

さて、軽飛行機に乗り空からナスカ台地に刻まれた地上絵を眺めましょう。

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 飛行場から飛び立ったところです、遥かアンデスの山々から流れ出る水の恵みを受けるオアシスがあります。2006年に東京の国立博物館で『ナスカ展』が開催されました。

 世界遺産 『ナスカ展』 国立博物館

 ナスカの人々は紀元前2世紀の頃から8世紀の頃までナスカの地で豊かな農耕生活をしていたと考えられているそうです。彼らは、海岸で漁業もしていたが、アンデス山脈からの豊かな河川を求め内陸に入り、ナスカの地で灌漑農業をして暮らしていた。

 その彼らが何故、一筆書きの線画を描いたのか、今も謎の儘で有ります。幾つもの放射状の線や滑走路のような線刻画、そして幾何学模様や動物を描いている。

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 最初に出会うのは『くじら』と呼ばれる線刻画です。これは本当にクジラでしょうかね。

20114peru_849  これは、シャチではないかと考えられているそうです。『ナスカ展』(国立博物館)の説明ではナスカの人々は海の神としてシャチを崇めていたと説明されていました。

すると、これ等のクジラ・シャチの絵が意味する世界は、海の神様の世界という事になります。

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20114peru_739  これは、滑走路のように見えますね。宇宙人の飛行場だったのでしょうか。それとも、冬至や夏至の時の太陽の沈む方向だったのでしょうか。確認してみましょう。

 グーグルアース ナスカ空港

「nasca_airport.kmz」をダウンロード

 クジラの東にある滑走路のような模様は明らかに真北を目指して伸びている。クジラの西や北にある滑走路の模様は西南方向を向いていると思われますね。マリア・ライへさんはナスカの多くの放射状の線刻や滑走路のような模様は暦・天体と関係があると主張しました。それは、今でも一部の線刻は夏至や冬至の太陽の沈む方向をしめしていると認められている。しかし、あまりにも線刻画は多いのでこの説も今は支持する人が少ないそうです。

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20114peru_753  宇宙人です、山の斜面に描かれており巨大です、長さ35メータはあると思います。フクロウ人間とも呼ばれているが謎です。最近、山形大学の坂井正人さんの研究グループが新発見した顔はこの宇宙人に似ています。

 参考 山形大学のナスカプロジェクト新発見

 目がまんまるで顔が丸く、似てませんか。誰なんでしょうか、山の斜面からナスカ台地の線刻画を見下ろすような格好である事が気になりますね。きっと偉い、神様かも知れませんね。

 私はフクロウ土偶や遮光器土偶に似てると思いました。

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マチュピチュ・ナスカ紀行(1) ナスカ地上絵編 ナスカへの憧れ

 承前 マチュピチュ・ナスカから無事帰国しました

 マチュピチュは日本人が一番訪問したいと考えている世界遺産だそうです。何故、日本人が憧れる場所であるのか、判らないが、多分、同じモンゴリアンの血を引くインカの人々が山奥に天空の都市を築いた想いを知りたいと思うからではないでしょうか。1億2千年前の氷河期が終わる頃にベーリング海をマンモスを追いかけて北米大陸に渡り、偶然に開いたカナダでの氷河の渓谷を南下し、遂に南米の端まで辿り着いた我々と同じ蒙古斑点を持つ民族がいた。

 エスキモー、北米インデイアン、メキシコのアステカ文明を築いた人々、中米ではマヤ文明を築き、アンデス山脈では、ペルー地域ではインカ文明を築いたモンゴリアンの人々が存在した。そして、彼らは高度な文明を築いたが、近世に於いてスペインや欧州の人々に征服・植民地化され文化・文明は破壊されてしまった悲しい歴史がある。

 さて、アンデス文明を考える時にプレインカと呼ばれる日本で言えば、弥生中期から古墳時代までの期間、栄えた文明がペルーの海岸から50キロ程度内陸に入った砂漠高原地帯に栄えた、これがナスカ文明である。皆さんはナスカの地上絵が飛行機に乗らねば見えない地面に描かれた地上絵に宇宙人が描いたと考えた人々は多いのではないでしょうか。

 訪問した順番とは異なりますが、先ずはナスカの地上絵訪問から紀行を始めたいと思います。最近、ナスカの地上絵の研究に関して山形大学の坂井正人さんの研究グループが大きな成果を出しています、100点近くの新しい地上絵を発見し、世界的に注目されています。彼らは、人工衛星の画像を利用し東西20キロ、南北10キロのナスカ台地の砂漠の映像を分析し正確な地上絵の地図を作製しようとしています。その過程で、新たな発見が相次いでいるそうです。

 高校生の為の講座 『ナスカ地上絵』(坂井正人さん講義)

 坂井さんの講義が動画で見れます、是非、一度最新のナスカ地上絵研究の最先端を学ばれてはいかがでしょうか。例えば、http://www.youtube.com/watch?v=kOI5PZ0wp94

 http://www.youtube.com/watch?v=MjVVOQU8j98

 http://www.youtube.com/watch?v=a_MEf83Ea_c

 http://www.youtube.com/watch?v=T3KjzLRhyyE

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 どうですか、ナスカ地上絵の最新の研究の状況を少しは理解できたでしょうか。ナスカの地上絵研究ではナスカの母と呼ばれたドイツ人女性の研究家マリア・ライヘさんに関する書物を読まれた人々は多いと思います、私も昔読んで感動した記憶があります。

 彼女は指が9本であり、ナスカの地上絵で描かれた9本の指と運命的な出会いが有りました。彼女が生涯ナスカ高原に住み、研究を続けたが彼女の説は暦説・天文説として後世に残された偉業でした。しかし、その説も今は批判が多いようです。坂井さんの話では地上絵は農耕の豊潤や再生を祈る目的で描かれたと説明されています。多分、現在は一番有力な説でしょうね。

 しかし、今でも宇宙人が描いた絵であり、滑走路も描かれていると主張する人も居られるでしょうね。さて、それでは、先ず、遺跡の近くの飛行場から飛び立ち地上絵を見てみましょう。

 マイフォト ナスカの地上絵 写真集

 ナスカ場所へ グーグルアースで旅をする

「nasca_airport.kmz」をダウンロード

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 予め、グーグルアースをインストールして私のグーグルアースを読みこんで下さい。軽飛行機で空からナスカの地上絵を眺める事が可能です。

 幸い、遊覧飛行の飛行場の近くに宿泊出来ましたので朝一番の飛行機で素晴らしい写真を撮影出来ました。

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追悼・天才オンラインプログラマー 九川和久さんを偲ぶ

 昨日夜、日本に帰国したが、実はその日は九川さんの告別式だった。

本当に別れの祭祀に立ち会え出来なくて申し訳が有りませんでした。九川さん、本当に今まで仕事やそれ以外でもお世話になりました。あなたの異変は正月に哲ちゃんから、メールがあり、内緒だけど『九川君が肺癌の宣告があり、手術も出来ない』という状況である連絡を受けた。

 実は、正月に私は寝屋川高校時代からの親友である、あだ名が”馬くん”からも肺癌に罹病した旨の連絡を受けていた。同時に会社生活では40年前から一緒してる九川君の肺癌について哲ちゃんから内密に連絡を受けていた。私はこの日から、タバコを捨てました。彼らが生きてこの世を過ごせるなら、自分は大好きなタバコを捨てますと神に約束した。

 昨夜帰宅すると、哲ちゃんのホームページで異変が起こっていた事が判明した。あの、素晴らしい優れたソフトエンジニアであり、男前のハンサムな、言葉が少ない、九川くんが死んだ事を知った。もう一日早く帰国していれば、彼の葬送の儀に参列する事が出来た、残念至極でありました。

 名前は九川和久さんと言う人でした。出会いは私が入社した昭和44年頃でした。当時、全国の銀行のコンピュータを直接連結する『全銀協システム』のシステム構築の仕事を電電公社のデータ通信本部と一緒に仕事をする仕事で出会った。彼は、私より先に入社していたが、年齢的には後輩だが、高専卒業で既にKDDのデユアルシステムを辻先輩の指導の元に福永先輩達と開発していた。

 この当時、KDDのデュアルシステムは世界最先端の安全システムでありました。指揮官は熊本出身の加藤栄護(山村)さん、パッケージの原型は赤とんんぼの三浦さんが開発、岩手出身の池田先輩の配下で私の師匠である宇治の寿司屋の息子で先輩の辻さんや1年先輩の福永さん達が、その後のNASAの安全システムの原型となるデユアルシステムの開発を成し遂げていた。

 私の理解では、同時に二台のコンピュータが同じ仕事を行う、その同期はタスクの動作が終わる単位でお互いにコンピュータ同士が結果を照合し合い、同じ結果であれば、次に進む約束で二台のコンピュータが同じ処理を進める、タスク同期システムであったと聞いている。世界で初めて開発したコンピュータによるコンピュータを信用しない自立システムであると理解している。

 その後、三台のコンピュータが同時に同じ仕事をこなし、多数決論理により結果を照合し、仕事を進めるコンピュータシステムに進化したのだ。システムは民主主義に移行したのだ。今でもNASAのシステムはこのシステムであると理解している。

 九川さんとはその後、仕事は分かれた、彼はオホーツク出身の同期の哲ちゃんと川崎重工さんのリモートバッツチRJE(リモート・ジョブ・エントリーシステムの開発作業に従事した。当時は最先端のマルチ・リービング・システムの開発であり、私は同期の阪大出身の吉村さんと伴に、トヨタさんのファックスの蓄積交換システムの開発を行っていた。

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マチュピチュ・ナスカから無事帰国しました

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 写真はマチュピチュです。インカの横顔が空に向かっているように見えますね。素晴らしい天気に恵まれ最高でした。

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 高山病も心配でしたが、クスコで二泊、標高が3600メータ程度あり心配でしたが、私は大丈夫でした。

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 ナスカの地上絵です、飛行機から撮影しましたが、ハチドリです。実はナスカに一泊して朝からナスカの地上絵を飛行機から見学し、地上から観れるナスカの地上絵も二カ所見学し、バスで8時間かけてリマに到着、4時間程度飛行場でロス行きの飛行機を待ち、深夜の便で9時間かけてロスに到着。

 ロスで3時間程度飛行機待ちをして11時間半をかけて成田到着と50時間以上横にならずに成田に到着。電車に乗ると地震がありヘトヘトで自宅に辿り着きました。

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三尾勢(みおせい)の内海

承前 断夫山(だんぷさん)古墳と味美(あじよし)二子山古墳

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 伊勢・尾張・三河の国に囲まれた内海を森浩一さんは『三尾勢の内海』と呼んでいる。古代より海運で繋がる文明圏を形成していたという。前回、断夫山古墳と味美二子山古墳について継体天皇との深い関係について触れました。伊勢・尾張・三河・美濃の国々がその後、天武天皇を支え、天武・持統王朝を支えた訳です。

 実は卑弥呼の時代から東海系土器は纏向遺跡で多く発掘されており、三尾勢の人々は纏向でも活躍していました。(パレス土器と呼ばれる) 彼らは、海人と呼ばれる人々であり、弥生時代から大陸・東南アジアとも交易をしていたそうです。

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 その証拠に、松阪の宝塚1号古墳の造り出し部から出土した船形埴輪は彼らが航海民である事を示し、三尾勢の内海を支配した大王の墳墓であろうと考えられています。(森浩一著 『地域学のすすめ』 岩波新書ー東海学から見えてくる新古代史像)

 しかし、見事な船形土器が特異な造り出し部(祭祀が行われた場所か)で2個、発掘されたそうだ。両端がせり上がり、王が座る場所には衣笠が掲げられ、楯形埴輪が両サイドに高く掲げられている。(森さんの話ではこの楯形埴輪の意味が未だ判らんそうです。特にY字形した石見型立物は盾だと考えられているが未だ不明。奈良県三宅町のい石見遺跡で最初に出土したので、この名前がつけられたそうです。)

 宝塚1号墳から出土した船形埴輪はどうも記紀が記録するヤマト王権への屈服儀式の様子ではなく、三尾勢の内海の王の堂々たる姿を描いていると考えられる。

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 天武天皇・持統天皇と三尾勢の内海との関係は、昨年11月に訪問した久留倍遺跡と壬申の乱ウオークで山中さんや、森さんのお話を聴き楽しかった思い出が有ります。この時に天武・持統さんが本気で信濃に遷都する考えであった事実を知りました。信濃の飯田市ですね、古代栄えた場所だそうです。

 参考記事 久留倍遺跡と壬申の乱ウオーク(2010年11月)

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