マチュピチュ・ナスカ紀行(3) 北米大陸に移動したのは誰か
承前 マチュピチュ・ナスカ紀行(2) ナスカ地上絵編 飛行機から眺める
ところで、ナスカの地上絵から離れますが、カナダ・アメリカの先住民やメキシコ、中米マヤ、南米インカの人々の先祖は本当に12000年前の氷河期が終わった頃に、マンモスを追いかけベーリング海を渡ったユーラシアのモンゴル族なんでしょうか。当時はユーラシア大陸と北米大陸は氷で接続されていたと言います。
私は、以前からこの説に疑問を持っています。私が考える可能性は、オホーツク海沿岸で文化・文明圏を形成していたオホーツク人がアリューシャン列島の沿岸沿いに航行し北米大陸に上陸ししていた可能性と日本列島の縄文人が千島列島からアリューシャン列島を経由して北米大陸に上陸していた可能性が現実的な歴史ではないだろうかと考えています。
数年前にノルウエーの北極圏を訪問した時に、アルタの岩絵を見学した。一万年以上前に欧州の北岸を船で航行していた、エスキモーの先祖のモンゴリアンが存在した。人々が移動したのは大陸を歩くのではなく、船で航行していた。どうも、欧州の学者さんは人間の移動は大陸を歩いて移動すると考えるようですが、本来は、船で移動していたと考える方が素直だと思う。
何時の日か、考古学者がオホーツク文化圏の土器や人骨とアメリカ大陸の先住民の遺物と連続性を見つけてくれるかも知れない。そして、又、縄文人の土器や人骨、遺物がアメリカ大陸で発見される日が来る事を信じている。
マンモスを追いかけてユーラシアのモンゴル族がベーリング海を渡るのもいいけど、それでは、具体的にマンモスを追いかけたモンゴル族の狩猟道具やマンモスの骨や遺物は発見されているんでしょうか。確か、骨に細かい黒曜石をカミソリの刃のように埋め込んだ狩猟道具はオホーツク文化圏の人々も使用していました。
私は入墨をする風習や首狩りの風習がアメリカ先住民に存在するが、メキシコでもそのように理解している。これは、海を生活の場としてきた日本列島に住む海の民の習俗ではないかと考えています。昔、西部劇を観てるとアメリカ先住民が顔に派手な歌舞伎模様を描いていたが、入墨の風習の残影であると考えていた。埴輪の顔を観れば同じです。
今迄、アメリカ原住民の歴史やアステイカ、マヤ、インカ文明を研究してきた学者は殆どが西洋の学者である。しかし、西洋の考えで彼らの歴史や精神構造を解明する事は困難ではないかと思います。モンゴリアンの歴史はモンゴリアンの血を引く人々が自分達の歴史として取り組まねばならない。西洋人からみれば、文化人類学であり我々モンゴリアンからすれば、自分達仲間の『歴史』なんです。
米国在住時代から感じていたのは、先住民のトーテムポールと日本の日本海沿岸の巨木信仰の共通性です。実は、このルーツは九寨溝・黄龍を訪問した時に中国最古の王朝である夏王朝の民族も同じトーテムポール信仰を持つことが判った。彼らは、その後漢民族に追われ、少数民族となるが、一部は長江を下り東シナ海を航行し日本列島や朝鮮半島南部、中国東海岸に海の民として生き残った。
日本海の巨木信仰は出雲の32丈(16丈ともいう)の100メータを越える櫓のような建造物を構築し、日本海沿岸には沢山遺跡があるが、三内丸山遺跡でも巨木建造物の跡が出土した。
私は、メキシコの博物館で沢山の土器や土偶を見学して来ました。今回もナスカの土器に触れる事が出来ました。未だ、縄文土器や弥生土器との関連について意見がある訳では有りません。しかし、縄文土器は世界最古の土器である可能性が高いと今でも信じています。
海を生活の場とする人々に、土器は必須であったと思います。水を溜めるには土器が一番便利だからです。
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