さきたま史跡の博物館
稲荷山古墳で有名なさきたま古墳群に博物館があります。数年前に訪問していたのですが、写真を公開していませんでした。博物館では原則撮影禁止ですが、撮影の許可を頂き営利目的ではなく、広く文化財の保護と歴史に感心を持つ人々の輪を広める為に公開します。
マイフォト さきたま史跡の博物館 写真集
さきたま古墳群の探訪記事は既に公開をしています。
参考 さきたま古墳群探訪記
もう三年前になるんですね、埼玉古墳群を訪問したのは。最近、地元の田園調布古墳群(荏原古墳群の一部)を訪問し、古代にこの南武蔵と北武蔵の埼玉古墳群の勢力と緊張状態にあった事を思い出した。
稲荷山古墳は雄略天皇と考えられるワカタケル大王の時代であり、河内にヤマト王権が巨大な前方後円墳を建造していた時代だ。その時の親衛隊の隊長だった人の古墳と考えられるのが稲荷山古墳の被葬者である。
写真集にて博物館の説明は添付しましたので、楽しく博物館のホームページと連携して楽しんで下さい。幾つか私が面白いと思うものを、拾い上げてみます。
右は鉄製の馬冑ですが、左は蛇行状鉄製金具と呼ばれるもので、馬に乗る時に背後に旗を立てる金具なんですね。右のイラストを観れば判りますね。
それにしても、馬に鉄冑をつけるなんて、馬も迷惑だったでしょうね。
左は琴を弾く男性、右は捧げ物をする女性の埴輪です。男性が琴を弾くのは祭祀の一環ではないかと思います、九州で仲哀天皇が奥さんの神功皇后の意見に反対した時に彼は琴を弾いている時に突然死していますね。
琴は男性が弾くものであったのかも知れません。
まさに、遊牧民というか西アジアの草原の騎馬民族の衣装ではないでしょうか。皮のベルトにバックルでベルトには精密に彫られた金具がついており、鈴がぶら下がっています。
4世紀末から5世紀にかけて三輪王権から河内王権に王権が移動したと考える学説もありますが、その根拠の一つが前方後円墳に埋納されるものが急に馬具や防具や戦闘的な副葬品に変化した事なんですね。神功皇后・応神天皇の頃からだと考えられています。
この須惠器は朝顔形埴輪でしょうか、特殊器台が進化した形態なんでしょうかね。古墳の丘陵に設置されていたんでしょうね。
さきたま古墳群はヤマト王権との連携が強いと考えられているが、遺物でもヤマトの香りがすると思います。
稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の文字解読により倭の五王の時代のヤマト王権の権力版図を知る事が出来ました。江田船山古墳の銘の文字解読にも稲荷山古墳の鉄剣銘文字解読は影響を与えた。
可愛いい犬ですよね。本当に埴輪は素朴で、優しさがあります。
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