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吉備関連の古墳群メモ

 吉備関連の古墳群についてメモを残しておきます。以前、箸墓古墳の相似形古墳として注目される浦間茶臼山古墳について、同じく相似形の私の地元の禁野車塚古墳、木津川の南山背の椿井大塚山古墳について触れました。

 参考 禁野車塚古墳関連メモ(Ⅱ)

 参考 オオヤマト古墳群と古代王権 その1

Photo

 グーグルアース 浦間茶臼山古墳

「uramachausuyama.kmz」をダウンロード

 浦間茶臼山古墳は吉備地方の最古の前方後円墳であり、纏向の箸墓古墳の1/2のスケールで築造されている事は同じ設計図から築造された古墳であると考えられ注目されている。又、都月型埴輪との関連についても以前に詳しく記録しました。私は、箸墓古墳の被葬者は記紀でヤマトトトビモモソヒメと記録されており、同じく弟が吉備津彦命であったという記録があります。

 吉備津彦は孝元天皇(孝霊天皇の異母皇子)の皇子である武埴安彦と木津川から樟葉のあたりで戦い破っている。森浩一さんの話では古代最大の内戦だったと語られています。戦場が私の故郷なので、何回も記事は書いています。私は箸墓古墳が卑弥呼の陵であれば、記紀で述べるヤマトトトビモモソヒメが卑弥呼であり、政治をサポートした男弟とは吉備津彦ではないかと思います。だから、同じ設計図で古墳が築造されたと考えます。

 どうも記紀では崇神天皇以前の記録が天武天皇の時代の武力・男王中心という考えから本当は巫女さんが権力の最高位におられ、男達は巫女に従い政治をする世界だった事を理解しなかったか、抹消したかったかどちらかではないだろうか。要は、三輪王権の時代は巫女さんが政治の上に君臨していた時代ではなかっただろうか。これが、激変したのは、河内王権即ち、神功皇后・応神天皇の時代から武力中心に激変したではないでしょうか。古墳の副葬品が激変するのが一つの証拠ではないだろうか。

 

Photo_2

 総社古墳群の写真です、詳しく見られたい方は先ほどの浦間茶臼山古墳のグーグルで西の方に移れば観れます。

 森浩一編『日本の古墳 西日本編』総社古墳群を参考にグーグルを検索し古墳群をプロットしています。総社市は岡山県西部を、中国山脈から南流してくる高梁(たかはし)川の沖積地の一角にあり、弥生時代には高梁川の主流は倉敷市の北の低い丘陵地帯の更に北に位置する総社平野の中を東流していたとあります。

 不思議な事に、西の宮山遺跡、展望古墳、三笠古墳などは三輪山一帯にあります。何故、纏向の三輪山の名前が此処にあるんでしょうか、不思議ですね。宮山古墳は前方後円墳であり、竪穴式石室、舶載の飛禽鏡や鉄剣・鉄鏃を出土している。又、墳丘中からは特殊器台や壺を出土している。古墳時代が始まろうとした時代の古墳である。

 吉備関係の古墳群は三輪山の纏向やオオヤマト古墳群、巌余の古墳とも関係がふかそうなので、今後も訪問して調べたいと思います。

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