環オホーツク海の古代文化
先日、『海・潟・日本人』日本海文明交流圏 監修 梅原猛・伊東俊太郎(講談社)を読んでいて、特に北大の菊池俊彦さんの論文『環オホーツク海の古代文化』に興味が寄せられた。
彼の説では3世紀頃から13世紀の頃までオホーツク海を取り囲む地域に文明圏が存在し、特に樺太(サハリン)から稚内、オホーツク沿岸から知床半島、根室、そして国後・択捉にかけて海を生活の場とするアイヌとは異なる人種が存在していたと言う。その民族はギリヤーク民族ではないかと述べている。
彼らは3世紀の頃から13世紀まで活躍したそうだが、北海道には擦文土器(さつもんどき)を持つアイヌ民族が存在した、しかし、オホーツク海沿岸には彼らとは異なる人種が存在し、アイヌにも影響を与えたと言う。オホーツク沿岸に存在した民族は大陸のアムール川沿岸の靺鞨・同仁文化圏の人々と交流が存在したという。
オホーツク海を囲むように諸文化は栄えたという。樺太から北海道のオホーツク沿岸地域と国後・択捉からアリューシャン列島にかけての地域、オホーツク海北西岸の遺跡で今だ文化圏としての名前は存在しないが、初期鉄器時代の遺跡が存在し、オホーツク海北岸のトカレフ文化の遺跡はオホーツク文化とよく似た文化であります。
古コリヤーク文化とは、今のコリヤーク民族の古代文化圏です。タリヤ文化とはカムチャッカ半島に広がる文化圏を指します。カムチャッカ半島の西海岸は発掘が進まず今だどんな文化文明が存在したか不明です。
まさに、オホーツク海沿岸に一大文化文明圏が存在していたという事です。特に、この文明は大陸のアムール川流域の靺鞨・同仁文化圏の人々と交流し鉄器の文明も早くから享受していたと考えられる。樺太・北海道オホーツク沿岸地域、国後・択捉の人々は鯨や大形の海洋性生物を捕獲し食糧にしていたようです。
今日はたまたま、放送大学で羅臼の涌坂周一さんが登場し、オホーツク文化について語られているのを拝見した。羅臼の松法川北岸遺跡の発掘の話は面白かったです。羅臼町郷土資料室に行けば、涌坂さんが丹精込めて作られたジオラマを観る事が出来そうです。
地域の歴史はこのような地道な考古学者により支えられている事を涌坂さんの話を聴きながらそう感じた。オホーツク人の竪穴住居の再現も、熊送りの儀式の再現も実に緻密に出来ていたと思う。全て手作りであり、何処かの電力会社のように丸投げはしていない。屋根もちゃんと白樺の皮でできている。
明治以降、本州の人々は北海道に進出した訳で、3世紀の頃から13世紀の頃などは全く日本の歴史書には登場しない、しかし、歴然とアムール川流域の人々と連携したオホーツク文化が存在していた。彼らは、擦文土器のアイヌの人々に影響を与え、13世紀の頃に忽然と消えて行ったのでしょうか。
司馬遼太郎の『菜の花の沖』の小説、高田屋嘉兵衛の波瀾の生涯と重なるオホーツクのロマンではないだろうか。
参考 オホーツク人の住まい 死後の世界
参考 オホーツク遺跡
参考 菊池俊彦さん
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