3世紀 関東にも前方後円墳は存在したのか その3 田園調布古墳群
承前 3世紀 関東にも前方後円墳は存在したのか その2 亀甲山古墳
前回まで、多摩川河口の左岸に切り立つ高台である多摩川台の一番古い宝莱山古墳(従来は4世紀末と考えるが今回、3世紀代ではないかと唱えるのは古庄浩明さん)と次に古い亀甲山古墳(5世紀前半)について紹介しました。
この辺りから多摩川左岸を遡る地域は荏原郡と呼ばれる南武蔵の重要な場所でした。今回はその中で、田園調布に存在する幾つかの5世紀、6世紀頃の古墳を紹介します。是非、桜の季節にはこの場所を訪問して下さい、美しい桜と多摩川や富士山を眺める事が出来ると思います。
写真は西岡第32号墳より出土した南武蔵では最古の円筒形埴輪の図解です。現地の古墳展示室で撮影しました。円筒形埴輪は吉備・ヤマトの古墳時代初期から出現するヤマト王権の前方後円墳で後円部墳頂及び段のテラスの部分に並べられた埴輪です。吉備の特殊器台から進化した埴輪ではないかと考えられている。
写真は石釧で、西岡第31号墳出土だそうです。説明板のように、南方の香りがする腕飾りであり本来はイモガイを切って造られ、巫女と思われる人や権力者の腕にはめられていました。イモガイ製から石製・銅製と九州から広く列島の弥生時代から古墳時代の墓から出土しています。
西岡第28号古墳から出土した六鈴(ろくれい)鏡と呼ばれる銅鏡です。獣鏡の周りに六個の鈴がついており、関東から中部地方に固有の銅鏡だそうです。写真では、巫女の腰にこの六鈴鏡が装着されており、祭具ではないかと考えられる。(亀の格好に似てますね)
古墳展示室の説明では、原産は北関東特に現在の群馬県の上毛野国あたりであり、荏原郡の指導者、小杵(おき)が上毛野の小熊と提携し埼玉の使主(おみ)を攻め滅ぼそうとした伝説を裏付けるような出土遺物であるという。(この話は埼玉古墳群を訪問した記事でも紹介しました)この事で、埼玉の使主(おみ)はヤマト王権に泣きつき、ヤマト王権が関東に介入し屯倉を増やした歴史が有ったのかも知れない。
先ほど紹介した、西岡第32号古墳から出土した円筒形埴輪です。
実は田園調布古墳群では埴輪の製作工房址も発掘されています。かなり、大規模な古墳群に必要な埴輪を製作していたかが判りますね。
ひょっとすると、土師氏の一派が関東に転勤してこの埴輪製作址を建設したのかも知れません。5世紀から6世紀、土師氏は河内の百舌鳥古墳群や古市古墳群の建設を担当していました。
昔、武蔵中原の工場や蒲田の事務所に勤務していた頃、桜の季節になるとこの古墳群の場所に花見で押しかけ、大宴会を開催していました。花見で酩酊し、大騒ぎをした記憶もあります。今から考えると、古墳群に眠る古代の人々は大迷惑だった事になりますね。
自由が丘の酒場で酩酊し、タクシーで帰宅する時もこの多摩川台の桜を見物して夜道を走った記憶があります。
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