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3世紀 関東にも前方後円墳は存在したのか その2 亀甲山古墳

 承前 3世紀 関東にも前方後円墳は存在したのか その1 宝莱山古墳

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 前回は田園調布古墳群の宝莱山古墳が3世紀築造の可能性があるという説を述べる古庄浩明さんの話を紹介しました。通説は4世紀末というのが今までの常識です。この宝莱山古墳の前方部は南の方角を向いています。そして、向かう会うように前方部を北の方角に向けた大きな前方後円墳が存在します、それが亀甲山(かめのこやま)古墳、国史跡です。

 どうやらこの亀甲山古墳は宝莱山古墳の次に古い古墳だそうです。従来の説は5世紀前半です。発掘されていないので、詳細は不明だそうです。

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亀甲山(かめのこやま)古墳 国指定史跡
古墳展示室での亀甲山古墳の説明です

亀甲山(かめのこやま)古墳説明

古墳の前の説明板の内容です。

亀甲山(かめのこやま)古墳と多摩川台古墳群一番南に有るのが亀甲山古墳で小さな時代が下がるが古墳群が北の方角に向かい、丘陵の背に沿い並んでいる。最初の首長墓は宝莱山古墳であり、その次の時代の首長墓が亀甲山古墳であると考えられる。南北の大きな首長墓と考えられる二つの古墳の間に6世紀、7世紀に沢山の1号墳から9号墳まで円墳が築造された。
 

 宝莱山古墳は今回、古庄さんが駒澤大学の学生を指導して測量したそうです。

 亀甲山古墳と宝莱山古墳は前方部を向きあい、多摩川台に鎮座しています。多摩川河口近くの左岸の丘陵であり、川を見下ろし古代では海もまじかではなかったでしょうか。多摩川水系は武蔵国の動脈であり物資が移動する河口の関に鎮座した古墳は武蔵国の経済や軍事を掌握していたと考えます。

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 浅間神社より多摩川河口方面を望む。

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