3世紀 関東にも前方後円墳が存在したのか その1 宝莱山古墳
私が爺さん4人組で高尾山・陣馬山の登山と温泉を楽しんでいる留守に、読売新聞3月9日朝刊文化欄にて聞き捨てならない記事が掲載されていた。『前方後円墳 3世紀関東にも』という見出しであり、従来の「畿内より遅れ」に異論とある。こんな話初めてであり、誰か小説家か面白半分で記事を書いたかと思ったが、ちゃんとした考古学者が二人唱えているようだ。
という訳で、何回になるか判らないがシリーズでこのテーマを追求したいと思います。
実は駒澤大学の非常勤講師の古庄浩明さんがそのうちの一人のようですが、私の住んでいる大倉山から電車で数駅渋谷寄りの多摩川駅近くの田園調布古墳群の一つ、宝莱山(ほうらい)古墳に注目しているようだ。
関東では一番古い前方後円墳と考えられるこの古墳は、前方部が三味線のバチが開くような格好であり全長97メータの古墳だ。この形態は箸墓や椿井大塚山古墳の墳形と似ており、同じ時期に築かれたのではないかと推論している。(形が同じだから同じ時期とは限らないけれどもね)
従来の研究ではこの古墳は4世紀前半の古墳であろうと考えられていたが、古庄さんは同古墳で見つかっている、縁が二重で円形の模様があるつぼ型土器が3世紀末の可能性が高いと述べているそうだ。
朝からおにぎりとお茶を用意し、リュックを担ぎ、インデージョージはこの田園調布古墳群の宝莱山古墳と古墳展示場を目指した。
この古墳の後円部は殆ど残っていない状況です。出土遺物は概ね写真で掲載した程度ではないだろうか。古墳展示室の中でこれ等のものは見学可能です。
多摩川の左岸には多くの古墳が存在するようです、先ず、田園調布あたりから世田谷の尾山台、等々力、野毛と続ながり所謂、昔の武蔵国の荏原郡の中核地域であります。考古学では、田園調布古墳群、野毛古墳群と呼んでいるようです。いずれにせよ、多摩川の賜物で育まれた肥沃な穀倉地帯であります。
さて、この古墳が3世紀末だという壺が見つからないので、調べたいと思います。
ところで、以前に埼玉古墳群を見学に出かけた時に書紀の安閑紀の記録で荏原古墳群辺りの小杵(おき)が上毛野・下毛野の小熊と連携し埼玉古墳群が存在するあたりの使主(おみ)を攻め滅ぼそうと策略した。しかし、使主はヤマト王権に助けを求め事前にこの策略を阻止したという話がある。
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