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卑弥呼は吉備地方出身か 箸墓古墳に龍のデザイン(読売2011/3/2)

 本日、読売新聞朝刊に民博の考古学の重鎮である春成秀爾(はるなり ひでじ)さんが吉備地方の文化と纏向遺跡の文化の共通性について触れ、掲題のような見出しで論文が掲載された。

 春成さんは、数年前に私が早稲田の考古学教室で学んでいた頃に、早稲田が会場で開催された考古学協会の学会に来られ、あの、センセーショナルな箸墓古墳築造は240年~260年という放射性炭素14法での発表で会場が騒然とした場面に立ちあいました。今回の論文の要旨を紹介します。

 『弥生後期の土器に描かれた龍』

 ・弥生時代後期の1世紀から2世紀の頃には土器に龍の絵を線で描いていた。龍の絵は近畿と吉備を中心に静岡から鹿児島まで分布が見られる。

 ・その特徴は尖った頭で、S字形に身体をくねらせている。魚のヒレ形の四肢を持っており、龍を水棲のサメに近いものと考えていた。

 ・大阪の池上曽根遺跡出土例では龍の後ろに木の枝を逆さにしたような線刻があり、龍の後ろ足の一つがその線の一つに乗っかり、龍が稲妻に乗って降りてくる様子だと考えられている。(樹状雷光) 龍は水を司る精霊であり稲妻により姿を現すと考えていた。

  参考 池上曽根遺跡(ドラゴン土器)

  『吉備特有の土器』

 ・同じ頃、吉備では頭は人で身体は龍という人面龍身を土器に描く習俗がありました。例えば、岡山市足守川加茂A遺跡や総社市横寺遺跡から実例が出土している。人面龍身は龍と人が交わって出来た神話と考えられ吉備の人々がそのような神話を信じていた。

 ・倉敷市楯築墳丘墓は2世紀終わり頃に築造された、全長80メータの吉備最大の墳丘墓である。その上に置いてあった弧帯(こたい)石は一辺が90センチで厚さ30センチの大きな石の全ての面に複雑な弧帯文が彫刻されていた。

 ・この石にも人面が彫刻されており、人面龍身を更に複雑化して立体的に作られ、吉備の大酋長の祖先は龍であった事を示していると考える。

 ・又、この楯築墳丘墓からは高さが120センチに達する巨大な器台も出土している。この器台には酒を入れた壺を載せて被葬者に捧げた祭祀に利用されたものと考える。楯築墳丘墓の器台には綾杉文(木の枝の形)即ち、稲妻の段階しか描かれていないが、次の段階になると弧帯文即ち龍を施し、特殊器台は吉備発祥の葬送儀礼に使用される祭器となりました。

 参考 岡山県古代吉備文化財センター

     同上 特殊器台参考

 『箸墓古墳』

 ・箸墓古墳は全長280メータの超大型前方後円墳で、墳丘の形態、出土した特殊器台と最古の埴輪から日本最古の古墳と考えられている。最近、民博の研究グループが箸墓から出土した土器の付着炭化物を放射性炭素14法で年代を分析し、240年~260年に箸墓は築造されたと結論した。

 ・卑弥呼が死亡したのは魏志倭人伝によれば、247年頃であり箸墓古墳の年代と完全に重なる事になった。箸墓は卑弥呼の墓である可能性が高くなりました。

 『結論』

 ・龍を祖先とする吉備勢力の象徴物である特殊器台が、箸墓古墳の後円部の最も目立つ場所に設置され、盛大な祭りを挙行したという事が意味する事は重大である。これは、卑弥呼の出身地が吉備地方であり、偉大な王の死に際して吉備勢力が自らの象徴物を奉献したと考えるのが、考古学的には最も自然な考えだ。

 『Jo君の感想』

 以上が、読売新聞に掲載された春成秀爾さんの論文の概要です。私の印象では足守川加茂A遺跡の線刻画は人面龍身には見えませんね、ひょうきんなハート形の顔と木の枝のような線が見えるだけ、楯築墳丘墓の弧帯石も渦巻きの中に丸い顔があるだけとしか見えません。箸墓古墳出土の特殊器台の模様も渦巻きにしか見えないです。

 私も今まで、纏向遺跡の出土物や吉備発祥の特殊器台や弧文円盤や弧文板、木でできた透かし彫りの円盤で弧文のような模様で不思議なもの、これも吉備が発祥と聞いていました。明らかに纏向に集結した列島の人々の中で吉備の人々はひょっとすると中心的なグループであった可能性は排除出来ない。しかし、卑弥呼が吉備出身かどうかは今回の説明だけでは納得が出来ませんね。

 ただ、昔から気になる事は神武東征神話に於いて、九州を出発して何故か、吉備で8年近く逗留してる事になるのですが、その事が謎だと今でも考えています。

 参考 纏向遺跡の古代地形

 参考 纏向遺跡の遺物について

 参考 纏向遺跡 大型建物跡の解釈

 参考 纏向遺跡 大型建物跡と三輪山信仰

 参考 纏向遺跡のバイブル 『大和・纏向遺跡』

 参考 纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』目次編

 参考 纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』読書感想(1)

 参考 纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』読書感想(2) 石塚古墳

 参考 纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』読書感想(3) 年輪年代法による纏向

 参考 纏向遺跡ニュース 『堂ノ後古墳』築造は5世紀末

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