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土師氏と埴輪と円筒棺あれこれ その2 円筒棺

 承前 土師氏と埴輪と円筒棺あれこれ その1 石材の確保

 円筒棺墓については、聞き慣れない人が多いのではないでしょうか。藤井寺市の論文に戻ります。

  藤井寺市 『土師氏と円筒棺墓』 を参照して下さい。

 土師氏の里遺跡からは100基以上の写真のような円筒棺墓が見つかっているそうです。巨大な円筒埴輪を横にしたようで、中に被葬者をいれたようです。概ね、副葬品は存在しないそうです。土師氏グループの独特の埋葬方法であろうと考えられているそうだ。

 副葬品が無いので、埋葬時期の特定が困難なようです、100年前の円筒埴輪を再利用して棺桶に利用した例もあり、時代の特定が困難だという。6世紀後半以降のもう大古墳が作られなくなった後も円筒棺墓は存在するが、それは、陵墓の管理に携わった土師氏の人々の円筒埴輪再利用である可能性が高いと推測される。

 土師氏は何故このような棺桶を使用したんでしょうか。自分たちが作る特殊な円筒埴輪に特別の宗教的な意味があったのでしょうか。ところで、埴輪の起源に関わる日本書紀の記述ですが、藤井寺市の論文『埴輪の起源説話』を参照して下さい。

 倭彦命(やまとひこのみこと)の葬儀に際して近習者を集め生きたまま埋め立て並べたという凄まじい記録があります。倭彦命を守る楯となるべく周りに生きたまま楯を持ち立ったまま埋められた。本当にこんな葬送儀礼が垂仁天皇の頃まで続いていたんだろうか。

 魏志倭人伝によれば、卑弥呼が247年に死亡すると100人が殉葬されたと記述が有ります。大王級の人が死ねば当時は殉葬は当たり前だったのかも知れない。箸墓古墳が卑弥呼であるとすれば、何処に100名は埋められたのでしょうか。

 前方後円墳の墳丘や段のテラスに並べられた数百~数千の円筒埴輪は、垂仁天皇以前では生きたままの人々が立って埋められていたのでしょうか。それとも、周濠の外に埋められていたのでしょうか。いずれにせよ、凄まじい鬼気迫る光景です。

 円筒埴輪を土師氏の人々が延々と棺桶として使用していた事実は、円筒埴輪が棺桶である事を示していると思います。

 ところで、この土師氏とは今で言えば大手の建設会社みたいなもんでしょうか、多くの古墳建設の労働者を管理していたと思います、即ち、何時でも軍団として武器を持ち戦う集団でもあったと思います。又、石を加工する技術や、土器を高熱で焼く技術、測量技術、高度な土木技術を持った、ハイテク集団であった訳です。

 6世紀後半以降、仏教の伝来により大型古墳は終息し、土師氏のグループは転業して行きました。同時に、氏族の名前も変更して行きました。菅原氏もその一つだそうですよ。

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