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姓名について

 耽羅(済州島)紀行を終えて、韓国人の姓と本貫について少し勉強した。耽羅国の起源説話は高氏と良(梁)氏と夫氏の本貫説話でもある訳です。韓国人は今でも本貫が同じ姓の男女は結婚できないと決まっている。同じ金氏でも本貫が異なれば結婚可能だそうだ。

 この伝統は北方遊牧民として動物の飼育から得た知識が背景にあると考えています。高句麗も百済も同じ扶余族ですから、北方遊牧民の末裔です。この伝統は今も韓国では引き継がれている。それに引き換え、日本の古代の支配層は近親婚が多く北方遊牧民から見れば異常な嫌悪を抱いていたのではないだろうか。

 しかし、北方遊牧民も姓は持たない民族だったと思います。元来、北方遊牧民はヌルハチ即ち満州族で清王朝を開いた人間の名前ですが、本来はこのような名前だったと思います。それが、何時の頃からか漢民族の風習のような姓名を名乗るようになりました。

 日本人だって、殆どの人は明治維新後に姓を名乗るようになり、江戸時代は武士階級と公家さんだけが姓を名乗れたのではないでしょうか。その姓も古代に臣籍降下した源・平・藤・橘という姓が天皇により与えられた。渡来人で功績のあった人間にも姓が与えられました、彼らは元来姓が存在しない百済・高句麗系統の北方遊牧民だったからではないだろうか。

 渡来系では秦氏、東漢氏、西漢氏、村主、百済王・・・・等々、渡来し功績があった人々に姓が与えられた。

 『親爺のルーツを探り始めました』

 昨日、熊取の鄙な地に住む姉から親爺のルーツに関する戸籍類と戸籍簿を原本とする系図が送られて来た。正確に調べろという指示なんでしょうか。父系を辿る調査を始めようと思います。Y染色体の歴史を辿る調査ですね、もうY染色体は世界中で、ボロボロらしいですが特に北欧は危険水域らしいという話を聴いています。

 X染色体は一部破壊されても、再生可能であるがY染色体はコピーして復元する相手がいないので、滅びて行くだけだという。このままだと、人類はあと何年持つのでしょうね、クローン技術で子供を作るしか解決策はなくなるんだろうか。脱線しましたね。

 さて、親爺のルーツを探る旅にでたいと思います。親爺が終われば、母のルーツを辿る旅に出たいと思います。10年程調査期間はかかると思いますが、死ぬまでにやりたいと思います。

 人間誰しも自分のルーツは何なんだろうと思いますよね、知りたいと思いますね。アメリカでは黒人の人がDNA分析でアフリカのどの地域が自分のルーツであるか調べる人が多いと聞いています。アフリカ大陸のどの地域から自分の先祖は連れて来られたのか、知りたいですよね。私の父系は江戸時代から海賊だったと聞いているので、どんな南方の島から辿り着いた人種なのか、大いに興味が湧くところなんです。(笑)

 天保6年(1836年)生まれの、私からみれば曾祖父の筒井源左エ門さんの戸籍簿の写しがあります。天保6年とは天保通宝が発行された年です、8年には大塩平八郎の乱や天保騒動(百姓一揆)が起こっています。このじいちゃんは筒井吉十という私の高祖父から家督を嘉永7年(1854年)10月朔日に相続したと戸籍簿に記録されています。

 嘉永7年とは日米和親条約が締結された年で、いよいよ幕末風雲急を告げる激動期に入る頃でした。この筒井源左エ門、曾祖父はどのようにしてこの激動期を乗り切ったのだろうか。場所は佐賀県杵島郡橘村大字蘆原という有明海に面した海岸地帯です。蘆原なんて、名前からして湿原地帯ですね。玄界灘では有りませんでした、有明海の水路が入り込む場所でした。

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Comments

お久しぶりです。

>渡来人で功績のあった人間にも姓が与えられました、彼らは元来姓が存在しない百済・高句麗系統の北方遊牧民だったからではないだろうか。

易姓革命の防止ではないでしょうかね?
昔の日本人は、「我国の朝廷は、末永く続いて倒れない。一方大陸を見よ・・・」というのを自慢に思っていたようですから。(欧州の王室にも姓が有り、王朝の交代は、王朝名の変化によって容易に確認できますね。)

儒教国家(中国の王朝)と付き合う上で、姓が無いと馬鹿にされたので、上流階級は仕方なく姓を名乗るようになった、というのが実際の所ではないでしょうか?

それから、南方でも、元来姓の無い地域は多そうですね。
というか、古い時代には、多くの民族が姓を持たなかったのではないでしょうか?

Posted by: 俄か古墳マニア | 2011.02.01 12:39 PM

ソースになるかどうか不明ですが、

タイの人名
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%90%8D

>タイ人は名字を使うことは近代にはいるまでなかった。一方で名であるが、伝統的に仏教と同時にアニミズムを信仰していたタイ人は、生まれたときに動物の名前(たとえば牛など)を付けることで災厄を逃れることが出来ると考えていた。


縄文人も弥生人も、そして東南アジアやアフリカの人々も元々は・・・アマゾンの原住民の方々などは恐らく現在も、苗字や姓を持たないのではないでしょうか?

東アジアにおいては、儒教国家中国の存在が異常なまでに大き過ぎるのが問題であって、元来古い民族は、姓を持たないのが一般的だったのではないでしょうか?

Posted by: 俄か古墳マニア | 2011.02.01 01:14 PM

俄か古墳マニアさん お久しぶりです

 コメント有難う御座いました。考えてみると、神武天皇もイワレヒコ、磐余地域に住む男の中の男という意味ですよね。苗字も名前も本当に存在したのか、判りませんね。

 確か動物の名前を貰うと力を貰えるという信仰が存在すると聞きましたね、馬子などはその例だし、竜馬などはまさにその儘ですね。

 江戸時代の下町でも、ハッツアンとか言ってたし、江戸時代から明治の頃の筒井家の戸籍を観てると女性は、ハツ、ツル、トヨ、そんな名前が登場しますね。


 

Posted by: jo | 2011.02.01 03:14 PM

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