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週末は白馬村の予定

 明日早朝から『赤とんぼ』冬合宿が始ります。今回は横浜組のわこちゃん、かっちんと稲田堤の三浦先輩と4名で1台の車で白馬村を往復する予定です。三浦さんの家まではかっちんの車で向かい、三浦さんの車に乗り換えて、何時もの、中央高速で向かいます。

 さて、白馬村の佐野坂の道路の状況は?

 スキー場の状況はどないな按配でしょうか。

 さて、前回は昨年の秋合宿でした。2010年10月でした。

  2010年度 秋合宿 晩秋の白馬村 岩岳散策

  2010年度 秋合宿 八方尾根トレッキング(3)

 前回の秋合宿ではあまり飛行機を飛ばさずに、八方尾根のトレッキングをやっていました。あれから、4か月経過です。千葉のラジコン親爺もラジコン歴40年の関西人Ysの旦那さんも参加される予定です。

 明日は朝6時半には出発です、今晩は渋谷で昔の会社の同期の仲間との宴会があるが、早めに帰宅しないとマズイです。

 ところで、唐突ですが、『関西』とは何でしょうか

 先日、網野善彦さんと森浩一さんの対談集『日本史への挑戦 「関東学」の創造をめざして』(大巧社)を読んでいた時に教えて貰った事です。

 ・「関西」という言葉は『吾妻鏡』に2回登場するそうです、従い、鎌倉時代に使用され始めた言葉であろうという。建仁(けんにん)3年(1203年)将軍頼家が病気になった時に、日本国66ヵ国を二つに分け、関西38ヵ国、関東28ヵ国とし、関西を実朝に関東を子供に譲ろうとしたとあるそうです。関西は明らかに、鎌倉幕府の「関東」に対抗した言葉のようです。

 ・鎌倉前期から「関東」は地名を指すというより、鎌倉幕府そのものを指す言葉となっていたようです。承久の乱で京都に六波羅探題が登場するが、それにより、三河・信濃・能登以東が「関東」で鎌倉の管轄、尾張・美濃・加賀以西が六波羅探題の管轄となったそうだ。

 ・鎌倉幕府の成立により意味が変化した言葉に「西国」という言葉があるようだ。鎌倉以前は京都・奈良の都を中心に考えた言葉であり、都より西を指した言葉であり、大陸の事であったり、国内では西海道(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅)を指した言葉であった。しかし、鎌倉幕府以降は美濃・尾張から西の国々を「西国」と呼ぶようになったようだ。

 

 ・天皇と将軍の統治権が及ぶところに国境線が出来た訳です。これが、鎌倉時代の出来ごとのようだ。日本国には明らかに二つの中心が存在するという考えが定着したのが、鎌倉時代だと網野さんは述べています。

 ・ところが、室町幕府の時代になると「関東」は縮小する。即ち坂東8ヵ国+甲斐と伊豆が「関東」の領域となります。そのうち、東北の奥羽が加えられました。そして、明治以降はヤマト王権中心の考えが中心をなし現在の我々が考える、「関東」に落ち着いたようです。どうも、西や東という方向を示す言葉は何処が中心かで変わりますよね。時代により政治は変わる、それとともに、西も東も中心地点が変わるという事ですね。

 ・本来は、「関西」「関東」の「関」とは三関を指した言葉である筈だ。即ち、東海道の伊勢の『鈴鹿の関』、東山道の美濃の『不破の関』、そして、北陸道は越前の『愛発(あらち)の関』が基準であった言葉だ。・・・・『愛発の関』は789年に廃止されるが、平安時代には愛発の代わりに近江の大津に『逢坂の関』が設けられた。

 ・ついでに、『坂東(ばんどう)』という言葉は足柄峠・碓氷峠が基準とする言葉であったと思います。

  『赤とんぼ 総料理長のわこちゃんが示す今回のメニューですぞ』

冬合宿お品書き

q      大根サラダ(塩こぶソース)

q      大根とホタテの煮物

q      ハムステーキ

q      かぶのソテー(バジルソース or ミニトマトソース)

q      豚角煮の肉ジャガ

q      アボカドとエビのカクテル(ワサビソース)

q      春野菜のペペロンチーノ

q      ネギのステーキ

q      ゴボウと牛肉の柳川風

q      厚揚げとキャベツの味噌炒め

q      鶏つくねの塩ちゃんこ鍋

q      スペインオムレツ

q      パエリア

などなど

 凄いね! 皆さん、合宿に参加したいでしょう?

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