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橿原市川西町新沢千塚古墳群 関連メモ

 承前 東博 特別展示 日本の考古遺物(続篇)

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 畝傍山の南の高台に600基を超える古墳が集中するのが新沢千塚古墳群と呼ばれる。越智丘陵と呼ばれる。

4世紀中葉から7世紀特に5世紀から6世紀が中心のようです。東博で展示されていたこの古墳群から出土したものは全て重要文化財である。硬玉勾玉、金製空玉、銀製空玉、金箔入りガラス丸玉、ガラス丸玉、雁木玉、ガラス小玉、金製方形板、金製垂飾付耳飾、金製指輪×3、銀製指輪、銀製釧、金製釧、金製歩揺、ガラス碗、ガラス皿、熨斗 遥かローマから西アジアの香りがする出土物に驚きだ。

 これ等がしかも、5世紀のものであり全て国宝でも不思議ではない。せいぜい径20メータ程度の古墳からの出土品である。今までの発掘調査資料や関連の論文をいずれは読んでみたいと思います。森さんの、同志社大学が担当したと思います。

 この古墳の東には宣化天皇陵が存在していますね、この古墳も本当に宣化天皇の御陵か判らないが、この古墳群と関係が深そうだ。となると、継体天皇の時代と関係が深そうだ。そして、海外との関係が深い氏族の群集墓と考えられそうだ。少し、調べたが大伴氏や東漢氏が関係者ではないかという説が存在するようだ。

 継体天皇を担いだのは大伴金村でした、そして任那の経営を担当していたと考えられる。朝鮮半島の経営は大伴氏が握っていた時代だ。その後、欽明天皇の時代に任那4県の百済への割譲問題で失脚したとされる。

 

 空撮の古墳群の写真を観ると、丘陵に円墳が群集して築かれており、朝鮮半島の墳墓形式に似ている可能性がありそうだ。朝鮮半島を旅していると、今でも丘陵に円墳が築かれているのを見かけます。東漢氏は渡来系と考えられるので、加羅・伽耶あたりからの渡来氏族である可能性もある。

 継体天皇といえば、今城塚古墳が陵墓と考えられるが、正史では安閑、宣化天皇と続き、欽明天皇と天皇位が移行したとする。三人とも継体天皇の息子であるが、欽明さんはヤマトの手白香皇女という高貴なお母さんです。

 実は、継体天皇崩御後は安閑・宣化さんを推挙する勢力と欽明さんを推挙する勢力が衝突し、南北朝のような時代がしばらく続いていたのではないかと考える人も居られます。即ち、安閑・宣化王朝と欽明王朝が並び立っていたという考え。

 新沢千塚古墳群のそばに宣化天皇御陵が正しいとすれば、安閑・宣化天皇を支持した勢力と関係が深いと思われる。ひょっとすると大伴氏は継体天皇の後継者問題で安閑・宣化さんを支持し、欽明さんを押す勢力との政争で負けた可能性が有りますね。

 欽明さんを支持したのは蘇我氏ではなかったでしょうか。また、朝鮮半島の歴史書では、継体天皇が崩御された時に同じく皇太子二人も身罷ったという記事があるそうです。これは、クーデターが起こった可能性を暗示しています。

 いずれにせよ、新沢千塚古墳群は重要な古墳群であるようです。再認識しました。

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