茅原大墓古墳 盾持ち人埴輪
京都のMuBlogで茅原大墓古墳の盾持ち人埴輪の発掘記事が記録されていたので、私もメモを残しておきます。
今回の話題は、茅原大墓古墳という箸墓古墳の東南の位置にある全長65メータの帆立貝型前方後円墳です。前方部はもう形が判らないようになっています。この古墳の東側の濠から今回の桜井市教育委員会の発掘で出土したようです。
案山子のような、ひょうきんな顔に頭には三角形の冑をかぶり、盾を持っています。顔はベンガラか朱で赤く染められ、目の周りと口の周りには入墨があるようです。典型的な古代の倭人の姿です。
円筒埴輪から4世紀末という見解が教育委員会から発表されたようです。寺沢薫さんの『日本の古墳 西日本編 箸墓古墳』によれば、出土円筒埴輪の土器編年により纏向4式以降であろうと述べている。
グーグルアースで箸墓古墳を中心に纏向遺跡から多神社、唐子鍵遺跡、鏡神社群、そして磐余地方、そしてオオヤマト古墳群を眺めて下さい。
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古代の盾と言えば、先日、東博で巨大な鉄で出来た5世紀頃の盾を見学しました。高さは2メータ程度あったと思います。これは、石上神宮蔵の鉄盾でした。この鉄の盾を眺めていて思い出したのは、大王が王位に就くと宮の門に盾をたてかけたという話です。記紀で、語られていた記録だと思います。実用ではなく王権のシンボルのような気がしました。
茅原大墓と箸墓の間を壬申の乱の頃に上ッ道が通過していた可能性が高いと思います。近江軍と大伴吹負の戦闘が行われた記録が記紀にあるそうです。箸墓の後円部が上ッ道に接していたという話です。
この辺りは古代に大市(おおいち)と呼ばれた交通の要衡で賑やかな市がたっていたようです。この場所以外では少し南下した金屋あたりに海石榴市(つばいち)という市がありました。いずれにせよ、箸墓あたりから金屋辺りは大きなマーケットが存在したようです。
さて、この茅原大墓古墳には盾を持った人物の埴輪が存在していたという話です。上ッ道を行き交う人々や巨大なマーケットに集まった人々は古墳の上に立つ埴輪を眺めていたんでしょうね。
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Comments
宮門を守るような盾持人の埴輪を置くような古墳の被葬者階級はどうなのでしょう。
新聞などでは、大王級とか有力皇族という説は見えなかったです。
なんとなく、それだと、Muが盾持人埴輪を自分の墓に飾ったようで、おかしいな?
それとも職業かな。(大伴とか物部とか軍事氏族)
埴輪の種類によって被葬者の特性は分かるのでしょうかね。鶏だと、焼き鳥好きだったとか(笑)
Posted by: 京都Mu | 2011.03.01 05:29 PM
京都Muさん どうもです
場所が箸墓、ホケノ山古墳の近くですね。帆立貝型前方後円墳で、全長が70メータ近い古墳ですから、重要な権力を持つ人物が被葬者だと思います。
時代は下りますが、継体天皇の今城塚古墳では埴輪を多量に作り、王宮のジオラマを作成して造り出し部で存在した事を思い出しました。
とすれば、宮門を守る衛士と考える事も出来ますね。とすれば、大王・皇族となりますかね。
Posted by: jo | 2011.03.01 06:05 PM