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茅原大墓古墳 盾持ち人埴輪

 京都のMuBlogで茅原大墓古墳の盾持ち人埴輪の発掘記事が記録されていたので、私もメモを残しておきます。

 参考 毎日新聞ニュース記事 MuBlog関連記事

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 今回の話題は、茅原大墓古墳という箸墓古墳の東南の位置にある全長65メータの帆立貝型前方後円墳です。前方部はもう形が判らないようになっています。この古墳の東側の濠から今回の桜井市教育委員会の発掘で出土したようです。

 案山子のような、ひょうきんな顔に頭には三角形の冑をかぶり、盾を持っています。顔はベンガラか朱で赤く染められ、目の周りと口の周りには入墨があるようです。典型的な古代の倭人の姿です。

 円筒埴輪から4世紀末という見解が教育委員会から発表されたようです。寺沢薫さんの『日本の古墳 西日本編 箸墓古墳』によれば、出土円筒埴輪の土器編年により纏向4式以降であろうと述べている。

 グーグルアースで箸墓古墳を中心に纏向遺跡から多神社、唐子鍵遺跡、鏡神社群、そして磐余地方、そしてオオヤマト古墳群を眺めて下さい。

「Hashihaka.kmz」をダウンロード (Jo君の長年にわたる奈良盆地の古代史遺跡が判りますよ)

 古代の盾と言えば、先日、東博で巨大な鉄で出来た5世紀頃の盾を見学しました。高さは2メータ程度あったと思います。これは、石上神宮蔵の鉄盾でした。この鉄の盾を眺めていて思い出したのは、大王が王位に就くと宮の門に盾をたてかけたという話です。記紀で、語られていた記録だと思います。実用ではなく王権のシンボルのような気がしました。

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2011年 『赤とんぼ』冬合宿報告書 その1

 承前 2011年度 赤とんぼ冬合宿 in白馬村

 昨年の3月に開催された合宿に、わこちゃんは家庭の事情により参加出来ず、かわりに、かっちんが中心になり料理は準備されました。今回は、わこちゃんが、料理長として大活躍でした。自宅から調味料を持参し、あらかじめ予告済みのメニューを続々と作られました。

 『料理篇』

大根サラダ(塩昆布ソース)

・大根とホタテの煮物

・ハムステーキ

かぶのソテー(バジルソース、ミニトマトソース)

豚角煮の肉じゃが

・アボカドとエビのカクテル(山葵ソース)

・春野菜の炒め物(菜の花)

・ネギのステーキ

牛蒡と牛肉の柳川風

・厚揚げとキャベツの味噌炒め

・塩味鍋

・キムチ鍋

・スパゲッテイ

・納豆・生玉子・ネギ・山芋・ちりめんジャコのJo風料理

 わこちゃんは、堂々たる料理人に成長しました。黙っていても料理が出てくるのは素晴らしいです。そして、30分間の『赤とんぼメンバーの紹介DVD』を彼は作りました。抱腹絶倒、個人情報暴露の、面白い映画となりました。そうです、わこちゃんは、料理・模型飛行機だけでなく、映像の編集技術も映画製作も意外と優れているのです。カッチン(監督)の元でよく育ちました。

 『スキー篇』

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 土曜日の午前は三浦・管理人・清ちゃんはスキーでした。快晴で最高のスキー日和だったようです。一応無事に、昼頃に全員怪我もせず山小屋に帰還しました。

写真は、管理人のスキー板とスキー靴です。私が学生の頃に履いてたスキーとは大違いです、こんな短いスキーは存在していませんでしたね。

20112iwatake_012  岩岳スキー場です。

写真の斜面は急斜面で豪快なスラロームが楽しめそうですね。

 2011年 赤とんぼ冬合宿 写真集

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2011年度 赤とんぼ冬合宿 in白馬村

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 承前 2010年度 『赤とんぼ 春合宿』

無事『赤とんぼ』2011年度 冬合宿が無事終了しました。2月25日(金)~27日(日)の期間、白馬村の岩岳の山小屋『ちんぐるま』で開催されました。

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 金曜日は天候が悪く、午後も雨が降りフライトは土曜日から開催する事になりました。

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 土曜日は朝から快晴、山小屋管理人、三浦さん、清ちゃんはスキーを楽しみ、それ以外は午前中からフライトを楽しんだ。

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同期の会 何時もの渋谷店

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 何時もは30名程度集まる同期の会が今回は何故か、8名でした。淋しい同期会となりました。幹事の久保田さん、蔵田さん、有難うございました。

 写真左から、ジョージ、蔵田さん、岡原さん、冨田さん、土田さん、久保田さん、杉本さん、藤田さん 以上です。

 次回は何時ものように仰山で集まりましょう。

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 北京ダック食べました。

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新沢千塚古墳を調べる その4 126号墳周辺古墳群の発掘

 承前 新沢千塚古墳群を調べる その3 126号墳

 県道北直ぐに田圃の中に標高10メータ程度で東に向かい伸びた尾根、約200メータ程度南北120メータ程度の尾根に整然と築かれた、126号墳を尾根の中心に作り続々と建造された古墳群。盟主的な存在の126号墳の出土物にすいては前回に東博の資料をご紹介しました。このグループの特徴と出土遺物について伊達宗泰さんの資料を紹介します。

 ・主墳を尾根の高い位置に置き、南北に挟むように少し標高が低い位置に2個の古墳が建造され、合計3個の古墳群が整然と東に200メータの尾根に古墳群が築造された。

 ・古墳の形態は長方形墳、方墳、円墳である。円筒埴輪の存在が認められる。家形埴輪も検出されている。埋葬施設は何れも木棺直葬である。

 ・副葬品としては、126号西隣の115号墳より衝角付冑(しょうかくつきかぶと)、肩・頸鎧、三角板鋲留短甲などの武具類や刀剣・鉄鏃・鉄斧類、三神三獣鏡・五鈴鏡の銅鏡二面に多数の玉類が検出された。

 ・東端部の139号墳からも眉庇付冑(まびさしつきかぶと)、肩・頸鎧、三角板皮綴短甲や挂甲などの武具や武器が出土し主墳の被葬者の性格を偲ばせる。

 ・やはり前回紹介した126号墳の副葬品は日本の古墳では類例が無く、特異である。

 ・編年については、129号墳で須恵器Ⅰ型式後半、128号墳ではⅡ型式(森浩一編年型式)の須恵器が出土しているので、丘陵頂辺部より築造が始まり周縁部に広がる傾向を示し、5世紀後半代に群構成が始まっている。

 『前方後方墳 81号墳を中心とする古墳群』

 ・126号墳を中心とする3列で仲良く尾根に作られた古墳群の北側にこれとは異なる墳墓群が存在する。

 ・全長38.4メータの前方後方墳 81号墳を中心に周りに、取り囲むように、70号、71号、73号、74号、75号、80号、82号墳が取り囲む。更にその外側にも分布するという状態である。81号墳胃がん古墳は径10~13メータ程度の円墳であり81号墳を盟主とする集団の墳墓群であろうと推論される。

 

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週末は白馬村の予定

 明日早朝から『赤とんぼ』冬合宿が始ります。今回は横浜組のわこちゃん、かっちんと稲田堤の三浦先輩と4名で1台の車で白馬村を往復する予定です。三浦さんの家まではかっちんの車で向かい、三浦さんの車に乗り換えて、何時もの、中央高速で向かいます。

 さて、白馬村の佐野坂の道路の状況は?

 スキー場の状況はどないな按配でしょうか。

 さて、前回は昨年の秋合宿でした。2010年10月でした。

  2010年度 秋合宿 晩秋の白馬村 岩岳散策

  2010年度 秋合宿 八方尾根トレッキング(3)

 前回の秋合宿ではあまり飛行機を飛ばさずに、八方尾根のトレッキングをやっていました。あれから、4か月経過です。千葉のラジコン親爺もラジコン歴40年の関西人Ysの旦那さんも参加される予定です。

 明日は朝6時半には出発です、今晩は渋谷で昔の会社の同期の仲間との宴会があるが、早めに帰宅しないとマズイです。

 ところで、唐突ですが、『関西』とは何でしょうか

 先日、網野善彦さんと森浩一さんの対談集『日本史への挑戦 「関東学」の創造をめざして』(大巧社)を読んでいた時に教えて貰った事です。

 ・「関西」という言葉は『吾妻鏡』に2回登場するそうです、従い、鎌倉時代に使用され始めた言葉であろうという。建仁(けんにん)3年(1203年)将軍頼家が病気になった時に、日本国66ヵ国を二つに分け、関西38ヵ国、関東28ヵ国とし、関西を実朝に関東を子供に譲ろうとしたとあるそうです。関西は明らかに、鎌倉幕府の「関東」に対抗した言葉のようです。

 ・鎌倉前期から「関東」は地名を指すというより、鎌倉幕府そのものを指す言葉となっていたようです。承久の乱で京都に六波羅探題が登場するが、それにより、三河・信濃・能登以東が「関東」で鎌倉の管轄、尾張・美濃・加賀以西が六波羅探題の管轄となったそうだ。

 ・鎌倉幕府の成立により意味が変化した言葉に「西国」という言葉があるようだ。鎌倉以前は京都・奈良の都を中心に考えた言葉であり、都より西を指した言葉であり、大陸の事であったり、国内では西海道(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅)を指した言葉であった。しかし、鎌倉幕府以降は美濃・尾張から西の国々を「西国」と呼ぶようになったようだ。

 

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新沢千塚古墳を調べる その3 126号墳

 承前 新沢千塚古墳を調べる その2 古墳の分布と発掘調査

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 新沢千塚古墳群の中でも有名な126号墳について調べてみました。出土品は何故か東博に収蔵されており、橿考研でないのが不思議だ。森浩一さんが多分、日本では初めての成果だと思うが5世紀にヨーロッパや西アジアから伝播した遺物を目の当たりして興奮された情景が浮かぶようだ。

 126号墳は長方形墳であるが、県道の北の古墳群にある東に200メータ程度、突き出した半島のような標高10メータの尾根の根元にあり、尾根は南北120メータである。この尾根に整然と主墳が尾根の高い位置にあり、少し標高が下がった南北二カ所に主墳と関係がありそうに二つの古墳が並んでいる。タコの足の吸盤のように主墳が尾根の背に並んで東に点々と並んでいる。そして、その主墳を南北で挟むように又古墳が少し標高を下げた位置で続いている。

 例えば主墳126号墳を挟んで北に125号墳、南に128号墳であり、少し東に進むと主墳129号墳を南北で挟むように北に152号墳、南に130号墳が続く按配だ。

 『東京国立博物館に収蔵された126号墳出土物』

 幸い、東博ではこの古墳から出土したもの全て重要文化財であるが、写真で公開している。

 ・ガラス碗

  被葬者の頭の右わきにブルーの皿に載せられた状態で発掘された。アルカリガラス製で淡黄緑色をする。器の壁の厚さは1.5ミリと薄く非常に軽い。底部に二段、胴部には五段にわたって円文を削り出している。ササン朝ペルシャ製ではないかと考えられている。

 ・ガラス皿

 被葬者の頭の右わきにあり、ガラス碗を載せていた。アルカリガラス製で紺色をしている。内面には鳥、樹木、人物、馬、花弁などが描かれていたと考えられる。外面にも何か描かれていた可能性がある。

 ・金製方形板

 龍文の透かし彫りがされており、帽子の飾りと考えられる。

 ・金製垂飾付耳飾

 耳飾りは3本の垂飾を持つ豪華なものだ。

 ・金製螺旋状垂飾

 刻みをつけた金線を螺旋状に巻きあげたもので髪飾りではないかと考えられている。

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新沢千塚古墳群を調べる その2 古墳の分布と発掘調査

 承前 新沢千塚古墳群を調べる その1 概観する

 『古墳の分布』

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 古墳群は忌部山を北の頂点として、貝吹山の南辺寺崎と与楽の谷を底辺とした三角形状の地域内に分布する、衛星写真で説明する。

 ・県道を挟んだA地区とB地区で157基、C地区の曽我川に面した地域に56基、見三才古墳中心のD地区で9基、貝吹山周辺のE地区で70基、寺崎周辺で63基、寺崎・与楽の谷沿い南斜面に49基、合計593基に及ぶ古墳が集中して建造された場所である。

 『発掘調査』

 1962年より5ヵ年計画で橿考研が1966年まで発掘を行った。当時は夏の2カ月間のみの発掘であった。

 ・調査古墳は総数137基(墳丘実測のみのもの12基)。1962年度はC地区23基、1963年度はA地区34基、1964年度A地区35基、1965年度B地区31基、1966年度D・B地区18基であった。1960年代の機械力の無い時代のこの古墳の数と夏の2カ月間だけという過酷な調査が想像される。

 『発掘成果』

 ・東西南北2キロの範囲に600基に及ぶ群集墳が存在するが、これ等の傾向は古墳時代後期に現れる現象であるが、新沢千塚古墳群は全国の傾向に対して早い時期に発生した。前方後円墳13基、長方形墳2基、帆立貝式前方後円墳1基、その他は全て円墳が主体をなすが、円墳のみという構成ではなく各墳形も混在するという構成を示していた。

 ・前方後円墳の状況

  最大は全長113メータの見三才古墳(現 宣化陵)、次は全長62メータの500号墳、それ以外は平均全長30メータ程度で最少は18メータ程度の前方後円墳であった。

 ・前方後方墳の状況

  殆どが全長26メータから38メータ程度の前方後方墳であった。

 ・方墳の状況

  枡山古墳(倭彦命)は特別で一辺85メータもあり日本最大の方墳である。しかし、これ以外は一辺15メータ程度の方墳であった。

 ・円墳の状況

  殆どが、径10メータから20メータ程度の円墳であった。

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新沢千塚古墳群を調べる その1 概観する

 承前 橿原市川西町新沢千塚古墳群 関連メモ

 東京国立博物館(東博)で出会った畝傍山南の新沢千塚古墳出土の遥かローマや西アジアの遺物に感動し、それが5世紀、ひょっとすると4世紀末かもしれないが、そんな日本列島が未だ国としても未成熟な時代に何故、古墳に埋納されたのか、衝撃でした。こんな、大事な事を何故知らんかったんやろ?考古学者は何処かに一杯秘密を隠しているんではないだろうか、疑いが湧く出会いでした。

 という訳で、この古墳と関係が深い森浩一さんの『探訪 日本の古墳 西日本編』(有斐閣選書)を徹底的に精読する事にした。筆者は(故)伊達宗泰さん(橿考研、花園大名誉)である。

 グーグルアース (予めグーグルアースをインストール必要) 新沢千塚古墳

「No328Tomb.kmz」をダウンロード  私のグーグルアースは古代史の宝庫です

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 新沢千塚古墳群は橿原市と武市郡高取町にまたがる地域に存在し、越智岡丘陵上に600基近い古墳群が集中する。標高150メータ程度であり、東西2キロの領域に存在する。西は蘇我川が南北に流れ、東は高取川が南北に流れ境界を結している。

 『周辺の環境について』

 橿原神宮駅は今まで何回も訪問しています、この北側は縄文時代から歴史時代までの複合遺跡である橿原遺跡と呼ばれている。1938年に橿原神宮神苑拡張工事の時に多数の土器、土製品、骨角器、石器、石製品、木製品、等々注目されるものが出土した。

 縄文関連では新沢千塚古墳の北の位置の箸喰遺跡から後晩期の土器片が出土している。弥生全期を通じて忌部山・天満山遺跡では弥生高地性集落跡が発掘されている。

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倭人異聞

 倭人、倭国という漢字を古代、中国人や朝鮮半島の人々は日本列島に住む人々に対して使用していた。倭という漢字は委(ゆだねる)に人が加って出来た漢字と考えられ、ゆだねしたがう、従順な人という意味と解釈されてきた。

 過去の歴史に於いて、倭の成り立ちに於いて色んな論考がなされてきたようで、例えば、倭人は自分の事を『わ』『われ』と称した事が理由とか、倭人の人々は従順だったからとか、小柄で矮(わい)人だったからとか、中華思想からの蛮族に対する悪字であるとか説があるが未だに定説はないそうだ。殆ど中国でも倭という漢字が時代により、中国東南部、所謂、長江下流域の人々や、百越の人々を指したり、朝鮮半島南部の人々を指したり、日本列島の人々を指すと言う按配だ。

 時代とともに、倭人や倭国は日本列島に住む人々を指すようになったようだ。倭国から日本国に中国に認めさせたのは確か則天武后の頃であり702年の遣唐使である粟田真人が日本国と名乗り、則天武后も認めたからだと記憶している。

 この『倭』という漢字に対して、森浩一さんは『倭人伝を読みなおす』(ちくま新書)で面白い説を述べておられます。以下、森さんの説です。

 ・倭という漢字は左に人があり、右には上に禾(か)があり、下に女である。森さんは今までこの漢字は女性が腰をかがめて稲を刈る様子を示した漢字だと聞かされてきた。問題は禾である。

 ・禾という漢字は『あわ』『粟』という意味らしい。『倭人伝』には「貫頭衣之の」あと「種禾稲紵麻」とある。従来の解釈は「禾稲や紵麻を植え」と解釈して来た。禾稲の漢字二字をイネと読ませて来たが、中国資料では禾稲をイネと読ませた確実な例は無いという。

 森さんは「禾、稲、紵、麻を植え」と読んだ方がいいと2~3年前に気がついたそうだ。つまり、「アワ、イネ、カラムシ、アサを植え」と読む。カラムシを紵麻の二字で書くのは新しいらしい。又、『後漢書』ではこの箇所を「土は禾・稲・麻・紵に宜しい」と書いてあるそうだ。紵と麻を逆に書いており、一字で意味が通るように書いている。

 ・アワは古代中国の華北地方の中心的な穀物である。殷や周の時代の主食であり、時代が下り麦が栽培されるようになる。禾というのは畑にアワが植えてある状態を表現し、収穫したあと穀粒になった状態を粟と漢字では書くそうだ。稲と米と同じだそうです。

 ・帯方郡から来た使者の目には北九州の島々の人々がアワ・イネの穀物やカラムシ・オオアサの織物の材料となる植物を栽培していると映った。

 結論として

 ・倭人とは「女がアワの植栽に励んでいる人」という意味になり、弥生時代にアワも盛んに栽培していたとみられる。一概に華北はアワ、日本列島はイネが主たる作物だったとはいいにくくなった。 

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橿原市川西町新沢千塚古墳群 関連メモ

 承前 東博 特別展示 日本の考古遺物(続篇)

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 畝傍山の南の高台に600基を超える古墳が集中するのが新沢千塚古墳群と呼ばれる。越智丘陵と呼ばれる。

4世紀中葉から7世紀特に5世紀から6世紀が中心のようです。東博で展示されていたこの古墳群から出土したものは全て重要文化財である。硬玉勾玉、金製空玉、銀製空玉、金箔入りガラス丸玉、ガラス丸玉、雁木玉、ガラス小玉、金製方形板、金製垂飾付耳飾、金製指輪×3、銀製指輪、銀製釧、金製釧、金製歩揺、ガラス碗、ガラス皿、熨斗 遥かローマから西アジアの香りがする出土物に驚きだ。

 これ等がしかも、5世紀のものであり全て国宝でも不思議ではない。せいぜい径20メータ程度の古墳からの出土品である。今までの発掘調査資料や関連の論文をいずれは読んでみたいと思います。森さんの、同志社大学が担当したと思います。

 この古墳の東には宣化天皇陵が存在していますね、この古墳も本当に宣化天皇の御陵か判らないが、この古墳群と関係が深そうだ。となると、継体天皇の時代と関係が深そうだ。そして、海外との関係が深い氏族の群集墓と考えられそうだ。少し、調べたが大伴氏や東漢氏が関係者ではないかという説が存在するようだ。

 継体天皇を担いだのは大伴金村でした、そして任那の経営を担当していたと考えられる。朝鮮半島の経営は大伴氏が握っていた時代だ。その後、欽明天皇の時代に任那4県の百済への割譲問題で失脚したとされる。

 

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お陰さまで、累積150万アクセスとなりました

 承前 お陰さまで、累積140万アクセスとなりました

 昨年12月11日に累積140万アクセスに到達しましたが、2か月少しで10万アクセスとなり本日累積150万アクセスとなりました。2004年3月からの累積です。これまでは、4か月の期間で10万アクセスのペースでしたので、この2カ月間は異常に沢山のアクセスを頂いた事に成ります。

 累計アクセス数: 1500062過去30日間のアクセスを分析してみます。

訪問者数: 31,770
1 JoBlog: トップページ 6792,094
2 JoBlog: 2011年 大倉山梅まつり 直前情報(明日から梅まつり) 281364
3 JoBlog: 2011年 大倉山梅園 梅が咲き始める 302358
4 JoBlog: 大倉山観梅会 ご案内 220290
5 JoBlog: 2009年 大倉山梅園梅通信 200270
6 JoBlog: 高句麗(コグリョ) 文明 193218
7 桜井市立埋蔵文化財センター: トップページ 6494
8 JoBlog: 40年前のラジコン飛行機 5685
9 オスロ バイキング博物館: バイキング船 4083
10 冬の 東尋坊: トップページ 4681
11 JoBlog: チチェン・イツァー遺跡紀行 エルカスティージョ=ククルカン神殿(El Castillo)編 6679
12 オルセー美術館 (Musée d'Orsay): ルノワール ピアノを弾く少女たち 5874
13 JoBlog: 新燃岳(霧島山系)噴火 5471
14 JoBlog: 纏向遺跡 大型建物跡南土坑出土遺物 4562
14 JoBlog: 2010年03月 3262
16 アンコールワット 第一回廊レリーフ: トップページ 2061
16 桜井市立埋蔵文化財センター: 芝遺跡出土 石鏃 石包丁 土製銅鐸 3161
18 JoBlog: 姓名について 3360
19 JoBlog: 建国記念の日は朝から雪 3559
19 驪山陵(兵馬俑坑): トップページ 859
21 JoBlog: 冬の 永平寺 2958
21 JoBlog: 纏向遺跡 大型建物跡発掘速報(続編) 4858

 この季節、地元の大倉山梅園の記事が圧倒的な人気を誇っています。古代史、考古学関係の記事も少しずつアクセスが増えました。40年前のラジコン飛行機は赤とんぼのYsさん関連記事です。

 『検索ワード関連』 同じく過去30日間の統計 

集計対象アクセス数:10,623

1 大倉山 647

2 365

3 2011 311

4 大倉山梅園 213

5 コグリョ 157

6 梅祭り 147

7 韓国 138

8 地図 133

9 梅園 95

10 済州島 88

 梅と韓国が独占ですね。

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耽羅(済州島)紀行 その20 最終回

 承前 耽羅(済州島)紀行 その19 南岸のホテル

 耽羅紀行も最終回となりました。司馬遼太郎の『耽羅紀行』を読んだのは随分と昔の頃で、仕事が忙しくのんびりと済州島を訪れる余裕もありませんでした。今や、隠居の身でのんびりと訪問する事が出来ました。有りがたいものです。

 韓国料理は私の家内はまるで駄目です、辛い物と漬けものが食べれないので、可哀そうでした。私は韓国料理が大好きなんです、飛行機の機内食で一番好きなのは韓国料理です。

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 石焼きビビンバも大好きです、済州島に到着し直ぐに空港近くで食べた石焼きビビンバ、美味しかったです。

石の器というのが面白いですよね、昔、杉並区の三井グラウンドを発掘している時に確か縄文時代の遺物層だったと思いますが、焼けた石が多量に出土しました。専門家の話では、当時は焼き石を調理では多用したという話を聴きました。そういえば、ハワイでも豚の蒸し焼きを作る時に地下の穴にバナナの葉を敷き、肉を葉で包んで焼き石を放り込み土を被せて蒸し焼きにしました。

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 アワビのお粥さんで、朝食でした。これが、実に美味しいのには驚きました。アワビというのは海女さんが海に潜り採集するもので、平城京跡からは沢山の鰒(あわび)の文字が記録された荷札が出土したようです。

 例えば、安房の『鰒』『調』、隠岐の国海部郡 鰒六斤、志摩国志摩郡と鰒を調として平城京に税として物納している。天平17年の志摩の荷札には耽羅鰒六斤という表記があり、解釈を巡り色んな意見があるようです。

 鰒といえば、伊勢神宮に納める鰒を紐のように切り、干したものが『のし』の原型だそうですね。房総の安房は四国の阿波の海人の人々が移住した歴史を残しているそうですね。むかし、誰か考古学者の本を読んだ記憶があります。阿波と紀州は淡路島を含み同じ海人のグループだったと思います。彼らは、熊野を経由、伊勢湾に進出し、志摩、伊勢を開拓し、日本海を東に進出し最後は南房総半島に到着したのでしょうか。

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 耽羅の海女が日本や中国やロシアの海岸まで出稼ぎに行く訳ですから、列島内で漁場を探すのは簡単な事ですよね。  

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東博とスカイツリー

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 東博から眺めるスカイツリーです。此処は上野の山の上ですからスカイツリーもそんなに高くは感じません。

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 この場所は何時来ても落ち着いて、いいですね。出来れば65歳以上は無料にしてくれるといいのですがね。(子供は無料だと思います、爺さん婆さんも無料にできんかね)

 さて、今回の仏教伝来の道、『平山郁夫と文化財保護』を再度振り返ります。

 ・1章 インド・パキスタン マトゥラー、ガンダーラ

   仏教誕生の地、インド、そして初めて仏陀像が作られたガンダーラ、此処での文化財保護の活動。この頃の仏像の顔はギリシャ・ローマの顔の仏陀像です。

 ・2章 アフガニスタン・バーミヤン

   タリバンにより破壊されたバーミヤン大石仏が有名です、平山さんは破壊前と後の両方を絵として残されています。文化財の散逸を防止する為に『流失文化財保護日本委員会』を設け、一次的に保管し将来本国に返還する運動を進められた。

 ・3章 中国ー西域

   天山山脈とゴビ砂漠の回廊は仏教東伝の道となり、オアシス都市では仏教が栄えました。楼蘭・クチャを始め多くの古代のオアシス都市を平山さんは訪れ、仏教東伝の道をスケッチされ、絵に残された。

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東博 特別展示 日本の考古遺物(続篇)

 承前 東博 特別展示 日本の考古遺物

 ⑥古墳時代Ⅲ 倭の五王の時代 からの続編です

 橿原市新沢千塚古墳出土の重文である5世紀の金製耳飾りです。この古墳群は600基を数え、畝傍山の南の標高150メータ程度の越智丘陵に集中する4世紀から7世紀、特に5世紀中葉から6世紀末まで盛んに建設された。出土物には遥かペルシャから到来したと思われるガラス碗や金製の装飾品が数多く出土している。遥かペルシャの香りがする。しかも、時代が5世紀~6世紀、驚きです。

 此れも、同じ古墳群から出土した重文の金製指輪である。こんなもの、日本の古代では観た事が有りません、西アジアのスキタイやヒッタイトやペルシャのあたりから遥かシルクロードを伝わったものではないか。同じく、重文のガラス碗も1~2ミリの厚さで切子の装飾だ。一緒に出土した重文のガラス皿には鳥・樹木・人物・馬などが描かれていたらしい。ササン朝ペルシャからの舶来の可能性が高い。

 又、重文で羽曳野の安閑天皇陵出土の伝のあるガラス碗も有名です。江戸時代に安閑天皇陵で土砂崩れがありその時に出土したという。煮た碗が正倉院にありますが、生産地はイラン北部と考えられる。

 シルクロードの西アジアの舶来品は正倉院の奈良時代を思い出すが、意外と、5世紀の河内王朝時代は奈良時代よりももっと遥か西アジアの文物が日本の支配層には届いていた事に驚かされる。4世紀中葉から4世紀にかけて、ヤマト王権が朝鮮半島や大陸に進出した確かな証拠ではないだろうか。 参考 正倉院白瑠璃碗

 ⑦古墳時代Ⅳ 地方豪族の台頭

 古墳時代の後期・終末期の副葬品を展示している。馬具や装飾太刀、須恵器、等々である。

 ⑧古墳時代Ⅴ シルクロード経由の古墳文化

 韓国の三国時代の伽耶(慶尚南道陜川出土)の重文のショウ斗(下か火であぶり容器の酒を温めたと思われる)がある。

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東博 特別展示 日本の考古遺物

 承前 東博特別展 仏教伝来の道 平山郁夫と文化財保護

 今回の東博訪問は平山郁夫さんの薬師寺の障壁画観賞が目的でしたが、以外にも、「日本の考古遺物」展示に遭遇した。本来は日本各地の博物館や資料館に行かねば観れないものを一堂に会しており、幸せな時間と感動の時間だった。

 前回は、時代を代表する名品4点について紹介しました。宮城県田尻町出土の縄文土偶で、縄文晩期の亀ヶ岡文化期の遮光器土偶、見事でした。あの独特のフクロウのような大きな目を遮るようなスリットサングラス。全身が装飾で飾られた見事な美術作品です。

 香川県出土の銅鐸に描かれた絵を始めてまじかで観れました。昔、佐原真さんが書かれた銅鐸の絵の解釈を思い出しながら、絵を眺めていた。可愛いスッポンや、弓で小動物を射る絵、臼を杵でつく人、トンボ、弥生時代の農耕儀礼の祭りで使用された祭器と考えられる銅鐸をまのあたりにした。この銅鐸は突然に、神仙思想の銅鏡にとって代わられるのだ。

 ①旧石器時代 日本文化のあけぼの

 ②縄文時代 列島文化の自立

   山梨県御坂町出土の奇怪な顔をした縄文中期の半身の土偶、これは面白い土偶です。私は狐の顔に見えましたが、皆さんはどうですか。

 超有名な、青森亀ヶ岡の土偶もありました。北海道室蘭出土の縄文晩期の土偶の衣類の模様はアイヌの模様に何処か似ていませんか。新潟県山北町出土の縄文時代後期の巻貝形土製品も面白い。長野県伊那市出土の縄文中期土器の大形深鉢の大胆な派手な自由な文様は縄文土器の特徴ですね。岡本太郎が絶賛し、美術品としての価値を見出した彼の功績は大きい。

 ③弥生時代Ⅰ アジア世界への参入

 茨城県下館市出土の弥生時代中期の人面付壺は滑稽でいて、気味が悪いですね。目の周りと口の周りは明らかに入墨をしていますね。倭人の特徴を表現しています。弥生時代の東日本では再葬墓というのが流行していたそうだ、骨を壺に入れ、数個を纏めて直径2メータ前後の穴に同時に埋めたそうだ。名古屋市熱田区で出土した弥生後期の重文の壺はパレススタイル(宮廷様式)と呼ばれる見事な土器だそうだ。伊勢湾岸地域が如何に高度な文化文明の地であったかが推測される。

 ④古墳時代Ⅰ 政治的社会の幕開け

 土師器の成立と三角縁神獣鏡の展開が展示。

 ⑤古墳時代Ⅱ ヤマト政権の成立

古墳時代前期の宝器・儀器である鏡や石製品(例えば石釧)を展示。重文のダ龍鏡が展示、想像上の動物ですが、ワニの一種ではないかと考えられている。これは、国内で製造されたものらしい。重文で群馬高崎出土の狩猟文鏡、これは珍しい4人の人物と4頭の鹿を描いている。

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東博特別展 仏教伝来の道 平山郁夫と文化財保護

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 東博 平山郁夫と文化財保護

 文化財保護法制定60周年記念のイベントとして東博(東京国立博物館)では3月6日まで特別展を開催している。平山郁夫さんが薬師寺に納められた門外不出の『大唐西域壁画』を拝ませて頂く為に今日、上野の東博に出向いた。

 第一部 文化財の保護と継承ー仏教伝来の道 第二部 大唐西域壁画

 平山郁夫さんは何度もシルクロードの地を訪問され、スケッチをされ、現地の文化財保護の為に身を粉にされて努力された。スケッチブックに描かれた絵は精密でおおよそ、大きなキャンバスに描かれた絵とは異なるものでした。大唐西域壁画は7個の壁画より成立している。

 ①明けゆく長安大雁塔・・・・・昨年私も再訪しました

 ②嘉峪関を行く

 ③高昌故城

 ④西方浄土 須弥山・・・・標高4千のヒマラヤをスケッチ

 ⑤バーミアン石窟(アフガニスタン)

 ⑥デカン高原の夕べ(インド)

 ⑦ナーランダの月(インド)

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  平山さんの絵は、昔、水戸の美術館で拝見させて貰った事がありました。沙漠を行く駱駝の隊商の絵が印象深かったです。彼の描く茶色の沙漠の風景は、普通の画家は描きたくないのではないだろうか。平山さんの絵を観ていると、独特のぼやけで、唐の時代の風景が見えないのに見えてくるような錯覚に襲われます。

 観る人毎に異なる絵が観えているのではないだろうか。これが、平山さんが到達した絵の世界ではないだろうか。そんな事を考えながら絵を眺めていました。

 薬師寺の壁画以外の絵は、殆どが山梨の平山郁夫シルクロード美術館で収蔵されている美術品であると思います。

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2011年 大倉山梅まつり 直前情報(明日から梅まつり)

 承前 2011年 大倉山梅園 梅が咲き始める(2011年1月22日)

 明日から大倉山梅園では二日間に渡り、梅まつりが盛大に行われます。そこで、前日の梅園の梅模様を御報告致します。素晴らしいですから、是非、御参集下さい、地元の住人としてお願いします。

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耽羅(済州島)紀行 その19 南岸のホテル

 承前 耽羅(済州島)紀行 その18 猫山峰(太王四神記撮影所)その2

 韓国と言えば、ロッテ、大規模な観光開発を済州島でも行っている。昨年は百済大典でもロッテの巨大なホテルに驚かされた。韓国のGDPを牽引している企業の一つだ。済州島は朝鮮半島の人にとり、南の海に浮かぶハワイのようなリゾート地というイメージを打ち出している。従い、その観光戦略に沿ったホテルやリゾート地の開発が行われている。

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遥か対馬暖流の流れる彼方には九州島がある筈だ。海の道を通じて古代から人々は交流をしていた、国家という閉鎖的なバリケードが出来る前はもっと自由に人々は交流した。

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 ホテルの庭から南の海を眺めていると、暖かい日差しと、無限の海の広がりが展開し気持ちがよくなりました。人々は、海岸で今日も又、不思議なものが到着しないか、待っていたのではないだろうか。きっと幸せは、海の彼方から到来すると考えていたのではないでしょうか。

 

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国際情勢はどうなっているのか

 最近の国際情勢を冷静に眺めてみたいと思います。最近、起こっている事件を考えてみる。

 先ず日本のGDPは中国に抜かれ、世界三位となった。10年以内に中国はGDPでアメリカを抜くと予想されている。日本は自由主義諸国の先進国の一つとして、人口の激減に耐えながら安定したGDPを維持して来た。中国は特殊な共産党1党独裁国家として自由主義諸国とは全く異なる政治・社会体制で経済発展と防衛力強化を第一とした国家体制で突き進んでいる。

 中国と類似の国家としてロシアが資源力を原動力として、国際的にも発言力を増して来ている。日本は戦後アメリカと癒着した自民党政権が長く日本国の舵取りを行い、アメリカは安心して中東諸国の石油権益を守る作戦が展開できていた。しかし、パートナーの自民党が敗れ、戦後初めて新たな民主党というアメリカには馴染の無い政権が生まれた。

 全く新しい政権が生まれると、古来、近隣諸国は新しい政権がどういう考えか打診する為に、戦争をを仕掛けてくるケースが多かった。アメリカは民主党がどのような考えでアメリカと関係を持つのか疑心暗鬼であった。そこを中国やロシアという政治体制も思想的にも自由主義でない国は仕掛けて来た。

 尖閣問題、北方領土の問題、当たり前のように彼らは探針「仕掛ける)を入れてくる、アメリカが日本に対して少し距離を置いて観ていると考えたからである。こんな事は、国際情勢では当たり前の事であり、弱い者は強い者の餌食ととなるのが国際情勢であり、古来、変わらない常識である。

 これから先、10年後の世界を考えると明らかに中国はアメリカを抜き、GDP世界一になりアメリカと世界の覇権を争う非・自由主義の1党独裁、共産党の国家となり、軍事力もアメリカと争う国家となる。ロシアも似たような国家として覇権を争う国になる。欧州もアメリカも自由主義諸国連合として中国、ロシアと対峙する事になる。

 その時に、インドやブラジル、東南アジアの経済発展諸国がどの陣営につくかが問題になる。世界史を振り返れば、中国は世界に稀な中華思想という特殊な世界観を伝統的に持つ民族である。形式的に中華文化を優れたものと崇め、朝貢すれば蛮族の一つの国として認める妙な性癖を持つ国なのだ。現在の北朝鮮はこの範疇で中国の中華思想の属国状態にあると思う。

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高尾山から陣馬山縦走し陣馬湯で泊まる

 高尾山から陣馬山へ縦走し陣馬湯で宿泊する計画を検討する。

 高尾山→陣馬山 地図

 高尾山から陣馬山までの縦走は約7時間程度の山歩きと想定されそうです。多くの人は京王線の高尾駅又はJR高尾駅で下車し、JR高尾駅北口のバス乗り場から陣馬山に向かうバスに乗り陣馬山から高尾山に向かい縦走するコースを撰ぶようだ。その理由は、夕刻のバスの便が圧倒的に高尾山の方が有利だからだ。

 さて、昨夕、久しぶりに『4Gの会』(4人の爺さんの温泉と山歩きを楽しむ会)の会合が神楽坂のレストラン『梵』でありました。結論は3月上旬のある日に1泊で高尾山・陣馬山を歩き、陣馬の湯に宿泊し宴会する事が議決された。

 という訳で、先ほど電話で露天風呂のある温泉宿を予約した。

 さて、温泉宿が決まり、次は山歩きを決めないといけない。先ず、高尾山から陣馬山へ縦走し陣馬山から栃谷尾根を下り、陣馬の湯に下るルートを考える事にした。7時間程度で温泉に辿り着けるか考えてみる。

 『集合目標 9時 京王線 高尾山口』

 ・Joさん 新横浜7時33分発→(横浜線)→八王子→(JR)→高尾→(京王線)→高尾山口 8時40分着。

 ・小島さん 二俣川7時20分発→(相鉄急行)→大和→(小田急 江ノ島線急行新宿行き)→町田8時23分着→8時27分発→JR横浜線→八王子→(JR)此処でJoと合流→高尾→高尾山口 8時40分着。

 ・古河・岩ちゃん 新宿7時55分発→(京王線準特急)→高尾山口 8時50分着。

 しかし、インターネットは便利ですね、段取りが直ぐに出来てしまいますね。ケーブルカーは朝の8時から15分間隔で動いています。便利ですね。ケーブルカーに乗りましょう。

 『高尾山から陣馬山へそして陣馬の湯へ下る』

 高尾山は標高599メータ、陣馬山は標高857メータ標高差300メータ程度ですが、城山山頂を越え、景信山を越え、底沢峠、明王峠、奈良子峠、を越えて陣馬山山頂に到着する。

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桜井茶臼山古墳関連メモ(2011・2・16)

 承前 三輪山周辺を歩く 目次編

 承前 桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行 目次編

 桜井茶臼山古墳について、気になる事をメモしておきます。と言うのは昨年8月に出版された森浩一さんの『倭人伝を読みなおす』で桜井茶臼山古墳に関して気になる事を記録されているからです。彼は、確か60年以上前にこの古墳の発掘に関与されてたと記憶しています。この40年前の発掘資料は確か、森浩一さんが編纂された本、名前は忘れたが、『西日本の古墳』に収蔵されており、詳細にこのブログでも紹介したと思う。

参考 60年前の桜井茶臼山古墳発掘

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 さて、今回は気になる事を列挙しますと。

 ①古墳の場所が外山(トビ)という場所にある。トビは鵄であり、神武神話と関係が深い。又このトビが鳥見に変化し神武4年から皇祖大神を祀る祭祀を鳥見山で行った。

 ②すぐ側に宗像神社が存在する。何故、九州の航海民の神である宗像の神を祀る神社がすぐそばにあるのか。

 ③古墳の場所は磐余(イワレ)というヤマト王権の王宮が長く設置された聖なる場所であり、神武天皇は本来、イワレヒコ即ち磐余の男の中の男という意味で神武天皇とゆかりが深い。

 ④全長200メータを超える前期前方後円墳であり、石室には200キロを超える金より貴重な朱が使用されているし、銅鏡も80枚を超えていた、大王の陵に相応しい。

 又、この近くの耳成山にかけて古代の豪族である阿部氏の拠点である。アベ氏はアマベ氏と古代は呼ばれていた海部、海人、海民、と航海民の豪族である。

 神武天皇が長脛彦と激闘したのは、この磐余の地であるらしい。戦況は神武さんに不利であったらしいが、突然に空が曇り雹が降り始め、神武さんの弓の上に黄金色の鵄(トビ)がとまったという。長脛彦の軍勢はその姿を観て逃げ出したという。戦前の学校では講堂の壁に神武さんの弓にとまる金色の鵄の姿を観た人々は多いと思います。

 敗戦後は教育委員会や左翼系の先生が仰山おられるので、こんな神話の絵は60年間封印されて来た。私は戦後生まれだけど、この神武さんの絵は色んな場所で観ています。神武さんと鳥の関係は意外と深いのです。航海の道案内をしてくれたのは、八咫烏(ヤタガラス)で足が3本ありサッカーに興味ある人は誰でも知っており、熊野大社に行けばこのカラスさんと会えます。

 鵄(トビ)とは鳶ですね、関西ではトンビと発音しています、輪島の海岸では油揚げをさらわれるので注意の看板がありました。海岸や、港に多く生息して、くるくる空で廻って獲物を探しています。海と関係が深い猛禽類ですね。鷲は山間部や草原に生息しており、鵄とはテリトリーが異なると思う。神武神話では、鷲ではなく、鵄という所が如何に彼が海と関係が深い神であったかを物語ると思う。

 

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耽羅(済州島)紀行 その18 猫山峰(太王四神記撮影所)その2

 承前 耽羅(済州島)紀行 その18 猫山峰(太王四神記撮影所)その1

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 (写真は翰林公園にて撮影)

 4世紀末から5世紀初頭にかけて日本列島に関する中国の歴史書は沈黙しています。古来、謎の4世紀と呼ばれていました。従い、吉林省集安の高句麗の故郷にある『好太王碑文』は極めて重要な歴史の証人と言えます。昔は韓国の学者が日本陸軍が石碑を改竄したという説が主流を占めていた時期がありました。

 倭が海を渡り百済・○○・新羅を破り臣民とするという箇所は、本来、日本軍が改竄する前は高句麗が海を渡り百済・倭寇・新羅を破り臣民としたと主張していた。しかし、この主張は1974年の日本の歴史学者、上田正昭さんが北京で入手した拓本は日本軍が関与する以前のものであり、改竄の跡は見つからなかった。又、2006年の中国社会科学院の調査でも改竄は存在しなかったという結論がでた。

 何れにせよ、謎の日本列島の4世紀から5世紀初頭の姿が『好太王碑文』により、明らかとなったのです。倭の五王の時代になると日本列島の様子が中国側の歴史書に登場するのですが、邪馬台国の卑弥呼の記述以降、中国側の資料から日本列島の様子の記述が消滅している。

 考古学的に考えると、発生期の初期の前方後円墳はヤマト盆地の東から南にかけての場所、オオヤマト古墳群、三輪山古墳群、イワレ古墳群に集中していたのが、河内の古市古墳群や百舌鳥古墳群に巨大な前方後円墳が築かれ、三輪山周辺に存在した王朝が崩壊し河内に新しい王朝が生まれたと考える水野祐さんの王朝交代説が有力と考えられる。

 磐余・三輪山・オオヤマト時代の巨大前方後円噴に埋納されている鏡や宗教的色彩が強いものから河内の巨大前方後円墳の埋納物は鎧・甲・馬具と突然に戦闘的なものに急変している事からも王朝が交代したと考える考古学者が多いと思います。騎馬民族征服説を唱えた江上波夫さんの根拠の背景は此処にありました。

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耽羅(済州島)紀行 その17 猫山峰(太王四神記撮影所)その1

 承前 耽羅(済州島)紀行 その16 翰林邑海岸地帯

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 済州島の東の萬丈窟の近くに猫山峰という場所があり、近年、京都の太秦のような巨大な映画村が出来ました。ペ・ヨンジュンさん主演の『太王四神記』が撮影された場所で、広大な地域に何と、広開土王(好太王)が活躍した時代(4世紀末~5世紀初頭)の高句麗の都をイメージして巨大なセットが作られた。

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 ヨンさま主演のドラマの『太王四神記』は断片的にテレビで観ましたが全ては観ていません。従い、どこまで史実を踏まえているか私には不明です。多分皆さんは学校で、高句麗の中興の祖と呼ばれ、高句麗の国土を最大に拡げた偉大な王、広開土王(好太王)については歴史で学んだと思います。

 簡単に歴史を振り返ります、高句麗は紀元前1世紀の頃に初代 朱蒙(チュモン)という王が高句麗の始祖王として歴史に登場する。現在、韓国ドラマとして日本でも放映されていますね。扶余族の遊牧民であり、百済と同じ扶余族です、現在の遼寧省本渓市恒仁満族自治県の五女山山城を都とした。

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 そして、1世紀の頃に第2代王の瑠璃明王の時に少し南下し、鴨緑江のそば、現在の吉林省集安の地に都を移した。此処に山城である丸都城と鴨緑江のそばの平地に国内城(クンネ)を築いた。第19代高句麗王の中興の祖である広開土王(好太王)の頃も此処が都であった。

 我々学校の歴史で学んだのは、吉林省集安に今も残る『好太王碑』の碑文を巡る戦前の日本軍部の改竄疑惑事件と韓国の歴史学者と日本の歴史学者の激しい論争が思い出されます。最近は、少しは冷静になったと思われますが、実は、中国と韓国の間でも高句麗を巡り激しい論争が続いています。

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 ちなみに、済州島の『太王四神記』の撮影場所には絶対に中国人は訪れないと誰かから噂として聞きました。その理由は、高句麗の英雄、朝鮮民族の英雄である広開土王の都は中国の領土にあるからです。殆どが満族、朝鮮族の人々が暮らす地域で独立運動が起こるのが一番怖いのです。

 中国と北朝鮮が微妙なバランスで国境を接しているのです。古来、漢民族は最新で言えば満族の清王朝に長く支配されて来た歴史があります。

 さて、一応、ヨンさまファンの為に映画村の写真集を作りました

 マイフォト 済州島 『太王四神記』撮影現場 猫山峰写真集

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耽羅(済州島)紀行 その16 翰林邑 海岸地帯

 承前 耽羅(済州島)紀行 その15 翰林(かんりん)公園 財巌民俗村

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 翰林公園の海岸から眺める飛揚島です。1002年の高麗王朝時代に噴火した火山島です。

 高麗王朝時代と言えば、13世紀にモンゴルが朝鮮半島に進出し1259年には高麗王朝はモンゴルに屈服した。しかし、朝鮮半島ではモンゴルに屈服しない軍団が高麗王朝から離脱しモンゴルと戦う事になる。三別抄と呼ばれる軍団が最後までモンゴルと戦うのだ。かれらは、高麗軍ではなく、民族独立派の軍団として高麗軍とも戦う事になる。

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 彼らは、1270年に済州島の明月里(浦)に上陸し高麗軍を破りモンゴルと最後の決戦を済州島で行う事を決意する。

 しかし、1273年に彼ら三別抄の軍隊はモンゴルに敗れ、全滅する事になる。彼らは、鎌倉幕府に使者を送り共同戦線を張ろうと動くが、実らなかった。そして、モンゴルは済州島で三別抄を全滅させた翌年の1274年に日本を攻める事になった、元寇である。1281年にも再度モンゴルは日本を攻撃するが、又もや季節風の台風の餌食となった。

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エジプト ムバラク長期政権崩壊する

 遂にエジプトのムバラク政権が崩壊した。30年に渡る長期政権でありアメリカが背後で支えて来た政権であった。これから、どうなるのか世界中が注目している。1年前に私はカイロにいました、まさかこのような政変が起こるとは思いもよりませんでしたね。

 観光客が零となれば、エジプト経済はどうなるんでしょうか。革命が起こる時は目先の利益よりももっと大事な事があるんですね。しかし、アメリカはこれで困りましたね。イスラエルは全くアラブに囲まれてしまいました。長い歴史の中でこの事件はどう位置づけられるのでしょうね。どうも、アメリカが育てた味方の南ベトナムやフィリピン、自民党、イラク、アフガニスタン、どれもこれも成功したんでしょうか。

 アメリカが育てた政権で猛烈な腐敗しなかった政権は自民党と韓国だけですね。何処に問題があるんでしょうかね。

 北方領域でもきな臭い話が持ち上がっている。ロシアの狙いは何なんだろうか、今更何で北方領域に進出してくるのか、理解に苦しむ。中国を始めアジアの経済発展の仲間に参入したいのだろうか。それなら、そう言えば仲間に入れてあげるのにね。(笑)

 一党独裁のイデオロギー国家である中国、王朝とも呼ぶ北朝鮮、そしてマフィアのような得体の知れないロシア、面倒な国に囲まれたもんですね。国内で、政争してる場合ではない。どないするねん、と、関西弁がでてしまいます。

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耽羅(済州島)紀行 その15 翰林(かんりん)公園 財巌民俗村

 承前 耽羅(済州島)紀行 その14 翰林公園 盆栽と石像

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 島の東部の城邑民俗村の紹介は既にしました、今回は島の西側の民俗村です。

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 此処に展示されている家は実際に存在した民家を移築したそうです。だから、昔の民俗を知るには大助かりですね。漢詩の屏風は知的レベルの高さを表し、右端の小さな入口は使用人が利用する出入り口だそうです。勝手口みたいなもんでしょうか。

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 南方的な風景ではないですか。石臼があり、茅葺き屋根、保存食の南京かぼちゃが甕の上に無造作に乗ってます。扉は観音開き、これは、朝鮮半島の影響だろうか。

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耽羅(済州島)紀行 その14 翰林(かんりん)公園 盆栽と石像

 承前 耽羅(済州島)紀行 その13 翰林公園 挟才洞洞窟・双竜洞窟

 今回は、盆栽園とかわいい石像の庭の御紹介です。

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 盆栽はアメリカでも人気です、最近日本では、世界中に輸出して外貨を稼いでいると聞きます。この公園を数十年前に作った人は日本で盆栽を学んだのでしょうね。

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 これは、『山橘』という名前が掲げてありました。常世の国、済州島の橘の種類の一つでしょうか。

 古代の日本人は橘を縁起の良い樹と崇めたようです。最初に臣籍降下した葛城王に与えられたのが橘の姓ですし、左近の桜、右近の橘と永遠の命の象徴だったと思います。崇神天皇のあと三輪王権を引き継いだ、垂仁天皇の時代に既に耽羅に田道間守が非時香菓(ときじくの かぐのこのみ=みかん)を採集に出張させられていました。

 江戸時代に『みかん船』で紀伊国屋文左衛門が大儲けをしますが、庶民の間には『みかん』が不老不死に繋がる神聖な非時香菓として考えられていたからではないでしょうか。落語にも死ぬ間際に、『みかん』を食べたいと言う話があったように思います。

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 この風景、『もののけ姫』にでてきたように、勘違いしてしまいます。映画でこんな森の妖精がでてきませんでしたか。

20111tanra_456  何処か似ていますよね。

勿論、映画よりもこちらの公園の方が早くから出来ていたと思いますが、人間が考えるイメージには共通性があるのではないでしょうか。

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淡路島 古代のロマン

 承前 淡路島に弥生中期の巨大鉄器工房跡「2009年1月23日」

 2年前にこんな大事件が発生していた、今日、本件に関し「淡路島のタヌキ」さんからコメントを頂いた。リンクしていた新聞社のサイトの記事は既に全てリンクが切られ、頼みの淡路市の教育委員会や埋蔵文化財を調べたが、関連の資料がリンク出来ない。国民の税金を使い埋蔵文化財の調査をした人はその成果をインターネットで公開すべきであるというのが、私の持論だ。今でも、各地の教育委員会では発掘成果資料を紙媒体でしか製作していないし、パブリックに電子媒体で公開していない。

 司馬遼太郎が何故、考古学者を嫌ったのか、かれが関西で新聞記者の時代の苦い経験が背景にある。オープンで無いのだ、成果物を個人や組織で独占する、奇妙な風習が考古学の世界に存在したのだ。立命館の白川静さんは京大に行き、甲骨文字を毎日書き写した、そして、書き写している間に、甲骨文字の精神を身体で感じたのだ。

 考古学を進化させ、若い優秀な人材が沢山憧れて集まる世界を関係者は作らないといけない。なんて、偉そうな話をしたくなるように、現状は埋蔵文化財の関係資料は学会や地域の教育委員会に隠匿されている。しかし、歴博や橿考研を始めインターネットで公開する研究機関が最近は激増しているのは望ましい。今や、電子的に翻訳可能になり世界中の考古学ファンはインターネットで調査をしているのだ。

 不本意ながら、愚痴がでたが、淡路島の弥生中期の巨大鉄器工房跡の遺跡の話でした。淡路のタヌキさんが何で2年後にコメントされたのか真相は不明です。私には昔、職場に出雲のタヌキ、石見のタヌキの呼ばれる人材が親友としていた。子供の頃、川で天然記念物の『大サンショウ魚』を捕えて、藁で包んで焼いて食っていた人物がいた。

 淡路のタヌキさんのコメントを読んでいると、何か、出雲のタヌキさんを思い出していた。

 さて、今でもちゃんとこの遺跡を真面目に伝えているブログを紹介します。

 園田義明めも

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 伊勢神宮関連の地図を表示します。現実に、グーグルアースを検索されれば緯度が正確に表示されます。

淡路のタヌキさんが、『クル』は製鉄と関係が深いと述べておられますが、そういえば、昨年暮れに、久留倍遺跡と壬申の乱ウオークで三重県を訪れていました。奈良時代の国衙の跡ですが、天武天皇・持統天皇がゆかりの久留倍遺跡でした。

 此処も、『クル』でしたね。この北緯34度32分の太陽の道は奈良盆地で三輪山と多神社と二上山を通過して行きます。

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 私は多神社は三輪王朝と関係が深い場所であると考えています。近くに秦庄が存在しています。

 現在、太田微高地の纏向遺跡の大型建物跡が注目されているが、三輪山の謎を解くには多神社の謎を解かねば解決しないと考えています。

 京都の松尾大社も平安京の内裏も伏見稲荷も元糺の杜も全て秦氏と関係が深いです。そして、必ず伊勢神宮を遥拝する場所が存在するい事に昔から興味を持っています。

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耽羅(済州島)紀行 その13 翰林(かんりん)公園 挟才洞洞窟・双竜洞窟

 承前 耽羅(済州島)紀行 その12 耽羅城東門市場(最古)

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 済州島の西北の地に一人で巨大な公園を作った奇人がいたという、彼の名はソンボンギュという人であると、司馬さんの『耽羅紀行』では登場する。彼は、日本統治時代に最高学府の済農(チェノン)を卒業し、その後、ソウルの大学で経済学を学んでいる。済州島は観光で経済を支えようとこの地で巨大な公園を作り始めた。

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 西北から吹き付ける強烈な風は浜から砂を内陸に運び、砂地の土地を公園に撰んだ。現在は天然記念物になっているが溶岩洞窟も存在し、早くから文化財遺産の保存と観光を両立させる努力をした。日本に渡航し、多くの公園や文化財保存の状況を学び、タキイ種苗から種を買い植物を育てた。

 司馬さんは奇人と言って褒めている、尊敬しているのです。長い儒教と朱子学で縛られた朝鮮に於いて、珍しく実学で行動した学識ある金儲けでない品のある人物であると評していた。だから、かれが創り上げた公園は品があると司馬さんは語る。

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 ちなみに、翰林とは馴染のない言葉ですが、この地方の地名だそうだ。むかし、このあたりから朝鮮王朝に対して翰林学士でも輩出したのではないかと司馬さんは推論していました。翰林とは唐の玄宗の時代に翰林学士院という皇帝直属の秘書室で、詔書の草稿を認める役所で科挙試験で上位に数名が撰ばれるエリート中のエリートが集まった。

 浅田次郎の『蒼穹の昴』でも梁文秀が科挙試験トップ合格として皇帝の直属の参謀を行うが、中国では唐の時代からこのような官僚の制度が続いていた。スモールチャイナの朝鮮半島でも類似の構図であったろうと思われる。

 この公園は天然記念物の挟才洞洞窟・双竜洞窟を始め、盆栽園や財巌民俗村、鳥の動物園もあり、多彩である。

 参考 翰林公園ホームページ

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耽羅(済州島)紀行 その12 耽羅城 東門市場(最古)

 承前 耽羅(済州島)紀行 その11 三姓穴(耽羅国発祥の地)

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 済州島最古の市場が耽羅城の東門の近くに存在していました。済州島では珍しく川がが流れており、河口には港が出来ました。数千年前から好条件に恵まれたこの場所は栄えたのでしょうね。耽羅国の城も此処に築かれました。

 この川の河口に徐福が上陸したという伝説があります。かれは、朝日が昇るのを観て、安心して無事に到着したと考え、この場所を朝天と名前をつけ、石に彫ったと伝説があります。朝天港、朝天浦と呼ばれている。瀛州(ヨンジュ)は耽羅ではないかと説がある。

 市場は賑やかで、海の幸が満載、美味しそうな魚や貝が沢山ありました。まさに、済州島の台所ではないでしょうか。写真集で魚を観て下さい。

 マイフォト 耽羅の台所 東門市場 写真集

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 美味しそうな鯛ではないですか。

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曾祖父(筒井源左エ門)の歴史を辿る旅 その1 故郷

 私の姉が私の父、祖父、曾祖父と辿った戸籍を送付してくれました。私の父はどんな環境で育ったのだろうか、そして先祖のルーツを辿ってみたいと思いました。父は故郷の話は一切しない人でした、祖父の兄弟の末裔から話を伺う程度でした。

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 曾祖父の本籍の場所です。有明海から貿易船が川を遡上し曾祖父の家の近くまで水路が開けています。

 『筒井 源左エ門』

 佐賀県杵島郡橘村大字芦原295番地です。戸籍では、佐賀県杵島郡蘆原町290番地となります。

 曾祖父の父は筒井吉十。そして、源左エ門さんは、長男として天保6年(1835年)12月5日に生まれています。この年は武雄市史によれば、冷夏で全国的に飢饉が襲ったようです。しかし、この辺りは難を免れたようです。今から175年も昔の話になります。

 源左エ門さんは、嘉永7年(1854年)10月朔日に家督を継いでいます。曾祖父19歳の時になります。曾祖母は天保7年(1836年)3月7日生まれの千綿伊十の長女です。

 源左エ門さんの長男で相続人の筒井吉蔵は私の祖父にあたります。慶応元年(1865年)1月2日生まれです。曾祖父が30歳の時に長男が生まれたのですね。明治24年(1891年)3月6日に筒井家を相続しています。吉蔵さん26歳で相続した事になります。

 吉蔵さんの奥さんで私の祖母は佐賀県佐賀郡赤松町の秀島忠香の三女ツルさんでしたが、明治18年に吉蔵さんの奥さんとなっています。この方は鍋島の姫さんと呼ばれていたと聞いています。

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耽羅(済州島)紀行 その11 三姓穴(耽羅国発祥の地)

 承前 耽羅(済州島)紀行 その10 萬丈窟(万丈窟) 溶岩洞窟

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 耽羅国建国神話の場所です。溶岩窟から三名の青年が出現した、高さん、良さん、夫さんの三名です。面白いのは韓国の歴史書である「高麗史」や済州島内の筆になる、「瀛州誌」「南槎録」「耽羅誌」「耽羅紀年」にて記録され、東の海から来訪した船に三名の姫さんと五穀と馬と碧浪国(倭国であると考えられている)の使者が乗っていた。三青年は日本から来た姫さんと結婚し耽羅国を建国したという。

 耽羅国は朝鮮半島よりも、倭国との関係が深い事が判る神話です。農耕を倭国が伝えたいう事と、朝鮮半島の北方遊牧民には存在しない海女のルーツは倭人に存在するという考えではないでしょうか。済州島の海女は遠く中国や日本やアムール川河口まで出稼ぎに海に潜りに出駆けていたそうです。

 新羅国の皇子であるアメノヒボコが日本人の嫁さんに逃げられて日本まで追いかけて来た話も古代の耽羅と弁韓・辰韓そして九州の倭人とが海の民族であった記憶ではないだろうか。アメノヒボコの奥さんは海女であり、出稼ぎに日本へ来訪していたのではないだろうか、耽羅と新羅(辰韓)とは3世紀以前では関係が深かった可能性が有ります。

 アメノヒボコは実は海女(アマ)の統括する男性という意味だったかも知れない。

 耽羅国建国神話に登場する日本の姫三名は私は宗像三女神神話と繋がる伝承ではないかと思います。海を生活の場として漁業と交易と僅かな畑作で生きていた民族の記憶ではないでしょうか。モンゴル好きの司馬さんが不思議と耽羅に興味を持たれていた理由が昔から謎でした。13世紀末に高麗国を滅ぼし、済州島に住みついたモンゴルの末裔に興味があったのかと思っていましたが、もっと、昔の倭人のルーツに関わる興味ではなかったかと今では考えています。

 マイフォト 耽羅国発祥の地 三姓穴 写真集 

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耽羅(済州島)紀行 その10 萬丈窟(万丈窟) 溶岩洞窟

 承前 耽羅(済州島)紀行 その9 ソプチコジ海岸と城山日出峰

 全長7.4キロの溶岩洞窟が世界自然遺産として登録されています。萬(万)丈窟と呼ばれる溶岩洞窟です。まるで、地下鉄の空間を歩いているような雰囲気です。

 マイフォト 済州島 世界遺産 萬(万)丈窟 写真集

 写真集を観て頂ければ、雰囲気が伝わると思います。

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 溶岩石柱です、溶岩ドームの天井の割れ目から溶岩が落下してまるで石筍のような形で出来たものです。万丈窟の一番奥にある一番有名なものです。

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 カメ岩です、落盤で溶岩洞窟に落下した岩を溶岩流が流し、岩の周りに溶岩流が縞模様を作った珍しい岩だそうです。

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耽羅(済州島)紀行 その9 ソプチコジ海岸と城山日出峰

 承前 耽羅(済州島)紀行 その8 城邑民俗村

 済州島の東の端にでかけましょう。先ず、韓流ドラマ通の人ならご存知のソプチコジという海岸に撮影の舞台となったオールインハウスという建物があるそうです。

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 私は全く興味が無いのと寒いので、目の前の対馬暖流が北上しているのを眺めていました。

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 此処からは九州や五島列島へは対馬暖流に乗り、冬の北西風を受ければ簡単に日本に到着でしょうね。

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 済州島の東の端にある城山日出峰です、崖下の海岸では海女が漁をしています。

 マイフォト 城山日出峰と済州島東海岸 写真集

 城山日出峰の頂上への往復は4~50分かかりますが、是非登った方がいいですね、眺望が素晴らしい。韓国版 天橋立がみられます。

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 城山日出峰から眺める景色です、砂州が伸び遥か彼方には無数の寄生火山群が眺望できます。素晴らしい景色ですね。

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新横浜宴会

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 アメリカ駐在経験者の新年会が昨夜ありました。二人は未だ若い現役の人材です、現役から刺激のある現場の話を久しぶりに聴けました。

 お店は、三崎三浦港という、まぐろの専門の居酒屋さんです。美味しくて、安いのが評判です。

 『最近の海外ツアーはキャンセルが多い』

 最近、JTBさんも、阪急さんも申し込んだツアーが中止になるケースが増えている。今年になり私は三回経験する事になった。申し込んだツアーが中止になったのだ。昨年のように、ジャワの火山噴火とかマチュピチュの土砂崩れなら仕方ないと思うが、単に人が集まらず開催中止である。

 しかも不自然な中止が気になっている。穿った見方をすれば、安い値段のコースと開催日を予告し、実際にはその安いコースは開催せずに高い値段の開催日に誘導する作戦である。予約金もしくは全額を支払った後に自宅に電話がかかり、中止だと言ってくる。

 こんな話は、昔は存在しなかった。最近は客も減り、競争は激化し、安いツアーを発表しないと競争に残れない、しかし、赤字ではどうしょうもない。激安ツアーは発表した中で1個くらいは開催するが、それ以外は元来開催する気なんぞ毛頭無いのと違うか?と、疑ってしまう。どうせ暇な爺さん婆さん相手だから、出発日の変更や多少の料金が上がる程度ならこの作戦が成功する確率が高いというビジネスモデルではないだろうか。

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耽羅(済州島)紀行 その8 城邑民俗村

 承前 耽羅(済州島)紀行 その7 サングムブリ(爆裂火口)

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 この邑(村)は済州島東部の中心となる村落であり300軒近くの家が城壁に囲まれた都市として存在した。衛星写真でも城壁の跡がはっきと判りますね、東西南に城門が存在した。

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 民俗村として昔の家屋や生活が今も残っている村です。この村には日本語が上手で吉本の舞台に立っても大丈夫と思われる、名物観光案内の婆ちゃんが居られます。長時間、お腹を抱えて笑い呆けた1時間程でした。

 詳細は、写真集に掲載しましたので、参照して下さい。

 マイフォト 済州島 城邑民俗村写真集

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耽羅(済州島)紀行 その7 サングムブリ(爆裂火口)

 承前 耽羅(済州島)紀行 その6 お化け道路と龍頭岩

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 済州島東部地域の観光地を示しています。今回はまるで、隕石が衝突したような地形ですが、本当は火山の噴火口であるサングムブリのご紹介です。

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20111tanra_174  通常の火山では爆発すると溶岩が火口から流れ出て噴丘を作ります。しかし、水蒸気爆発のような噴火だと噴丘を作らずに大きな噴火口だけが出来てしまうそうです。

これを爆裂火口と呼ぶそうで、日本では仰山の例があるそうです、例えば磐梯山も爆裂火口だそうです。韓国のある朝鮮半島はプレートの衝突が無い安定した地盤ですから、日本列島のように火山も温泉も少ないと思います。

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 30万平方メータ内部底の周囲は756メータあるそうです。この辺りも世界遺産に登録されています。

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久しぶりの夜の顧問会議

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 久しぶりの『夜の顧問会議』メンバーが新橋の『魚喰呑人樂』で宴会でした。皆さん、相変わらず元気です。ゴルフをするメンバーでは次回のゴルフ会の日程を決め、そのうち、皆で中国に行こうという話で盛り上がった。

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耽羅(済州島)紀行 その6 お化け道路と龍頭岩

 承前 耽羅(済州島)紀行 その5 赤ちゃんの揺りかご

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 今回は済州島北部のお化け道路(トケビ道路)と龍頭岩の観光地のご紹介です。位置関係は衛星写真で概略理解が得られると思います。

 『お化け道路(トケビ道路)』

 結論から言うと、昔、11PMという深夜テレビ番組で大橋巨泉さんが紹介していたサンノゼ近郊のミステリースポットの済州島版と考えて下さい。

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 この道路の並木の木は全て垂直に立つのではなく、左に全て傾いて伸びています。それは、背景の雑木林の木々と比較すれば判りますね。

従い、人間は並木の木々が垂直に生えているものと勘違いして、写真の左側方向は登り勾配の道であると錯覚する。しかし、実はこの道路は左に少し下がっている。それでも、登り坂であると錯覚するので、アクセルを踏むと凄いスピードが出てしまいます。

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20111tanra_007  現地の案内の人がペットボトルを置いて、左に転がるのを実証しています。

両側の並木の木々が手前に傾いて伸びているので、こちらが標高が高く感じますが、錯覚です。木は垂直に伸びるものだという考えが間違いを起こしているのです。

 サンノゼのミステリースポットでは家そのものが傾いており、その中に入ると垂直の壁が実は傾いており、登り坂をボールが登ってゆくという錯覚が起こります。同じですね。

 済州島の場合は多分、強風の影響で並木全体が同じ方向に道路と並行して傾いて成長しているので、ミステリースポットが生まれたのでしょうね。

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20111tanra_013  お化け道路よりも、こちらの方が面白そうでしたね。鬼屋とはお化け屋敷の事のようですよ。

奇妙なトーテムは昨年の安東(アンドン)紀行でも遭遇しました。

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姓名について

 耽羅(済州島)紀行を終えて、韓国人の姓と本貫について少し勉強した。耽羅国の起源説話は高氏と良(梁)氏と夫氏の本貫説話でもある訳です。韓国人は今でも本貫が同じ姓の男女は結婚できないと決まっている。同じ金氏でも本貫が異なれば結婚可能だそうだ。

 この伝統は北方遊牧民として動物の飼育から得た知識が背景にあると考えています。高句麗も百済も同じ扶余族ですから、北方遊牧民の末裔です。この伝統は今も韓国では引き継がれている。それに引き換え、日本の古代の支配層は近親婚が多く北方遊牧民から見れば異常な嫌悪を抱いていたのではないだろうか。

 しかし、北方遊牧民も姓は持たない民族だったと思います。元来、北方遊牧民はヌルハチ即ち満州族で清王朝を開いた人間の名前ですが、本来はこのような名前だったと思います。それが、何時の頃からか漢民族の風習のような姓名を名乗るようになりました。

 日本人だって、殆どの人は明治維新後に姓を名乗るようになり、江戸時代は武士階級と公家さんだけが姓を名乗れたのではないでしょうか。その姓も古代に臣籍降下した源・平・藤・橘という姓が天皇により与えられた。渡来人で功績のあった人間にも姓が与えられました、彼らは元来姓が存在しない百済・高句麗系統の北方遊牧民だったからではないだろうか。

 渡来系では秦氏、東漢氏、西漢氏、村主、百済王・・・・等々、渡来し功績があった人々に姓が与えられた。

 『親爺のルーツを探り始めました』

 昨日、熊取の鄙な地に住む姉から親爺のルーツに関する戸籍類と戸籍簿を原本とする系図が送られて来た。正確に調べろという指示なんでしょうか。父系を辿る調査を始めようと思います。Y染色体の歴史を辿る調査ですね、もうY染色体は世界中で、ボロボロらしいですが特に北欧は危険水域らしいという話を聴いています。

 X染色体は一部破壊されても、再生可能であるがY染色体はコピーして復元する相手がいないので、滅びて行くだけだという。このままだと、人類はあと何年持つのでしょうね、クローン技術で子供を作るしか解決策はなくなるんだろうか。脱線しましたね。

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