新沢千塚古墳群を調べる その2 古墳の分布と発掘調査
『古墳の分布』
古墳群は忌部山を北の頂点として、貝吹山の南辺寺崎と与楽の谷を底辺とした三角形状の地域内に分布する、衛星写真で説明する。
・県道を挟んだA地区とB地区で157基、C地区の曽我川に面した地域に56基、見三才古墳中心のD地区で9基、貝吹山周辺のE地区で70基、寺崎周辺で63基、寺崎・与楽の谷沿い南斜面に49基、合計593基に及ぶ古墳が集中して建造された場所である。
『発掘調査』
1962年より5ヵ年計画で橿考研が1966年まで発掘を行った。当時は夏の2カ月間のみの発掘であった。
・調査古墳は総数137基(墳丘実測のみのもの12基)。1962年度はC地区23基、1963年度はA地区34基、1964年度A地区35基、1965年度B地区31基、1966年度D・B地区18基であった。1960年代の機械力の無い時代のこの古墳の数と夏の2カ月間だけという過酷な調査が想像される。
『発掘成果』
・東西南北2キロの範囲に600基に及ぶ群集墳が存在するが、これ等の傾向は古墳時代後期に現れる現象であるが、新沢千塚古墳群は全国の傾向に対して早い時期に発生した。前方後円墳13基、長方形墳2基、帆立貝式前方後円墳1基、その他は全て円墳が主体をなすが、円墳のみという構成ではなく各墳形も混在するという構成を示していた。
・前方後円墳の状況
最大は全長113メータの見三才古墳(現 宣化陵)、次は全長62メータの500号墳、それ以外は平均全長30メータ程度で最少は18メータ程度の前方後円墳であった。
・前方後方墳の状況
殆どが全長26メータから38メータ程度の前方後方墳であった。
・方墳の状況
枡山古墳(倭彦命)は特別で一辺85メータもあり日本最大の方墳である。しかし、これ以外は一辺15メータ程度の方墳であった。
・円墳の状況
殆どが、径10メータから20メータ程度の円墳であった。
『埋葬施設』
・調査古墳125基中、110基は木棺直葬の方法であり、横穴式石室を採用している古墳はわずかに3基しかない。
『千塚最古の古墳である500号墳について』 参考 橿原市教育委員会記事
・全長62メータの前方後円墳であり、後円部には粘土槨の埋葬施設と遺物副葬用の副槨が存在、くびれ部には粘土槨と円筒埴輪棺、前方部には粘土槨と四っの埋葬施設が存在する。
・主槨は既に盗掘にあっていたが、それでも勾玉16、小玉451、管玉101、丸玉1、琴柱形石製品2、といった玉類を中心に残っていた。又、副槨からは、銅鏡6{方格規矩鏡2、内行花文鏡2、三角縁神獣鏡1、八ッ手葉形異形銅製品(懸垂鏡)1}、筒形銅器5、銅釧1、車輪石3、石釧1、鍬形石片・石製紡錘車1、石製坩1、碧玉製鐓(とん)7、銅鏃27、鉄鏃1、矛1、鑓先8、直刀23、剣4、などの武器類、方形板皮縅短甲などの武具、工具類は槍鉋16、刀子29、斧10、鎌18、鍬先21、などと多量の副葬品が発掘された。
・千塚古墳群では最古の古墳である。
『213号墳について』
・割竹形木棺を埋葬施設とする前方後円墳である。
・鏡4面{二神二獣鏡、内行花文鏡、変形鏡、獣形鏡}、石釧、勾玉、管玉、小玉、金環、鉄刀、農耕具類(斧、鍬先、鎌、刀子、槍鉋などを発掘。
・500号墳に次いで古い古墳であると考えられる。何れも4世紀代に築造された。4世紀後半になり、群集墳が建造され始めたと考えられる。郡構成を始めるのは5世紀中葉頃からであり、最も盛んに墳墓が築造されたんは、6世紀前半代である。後半に入ると、減少し始める。
この地域の古墳群は全体で統一した傾向を示す事は出来ない、スモール墓域毎に傾向が異なり、次はミクロ的に古墳群をみてみましょう。
注: 考古遺物に馴染の無い人には釧(くしろ)とか、車輪石とか、鐓とか、筒形銅器とかイメージが湧かないと思います、東博や各地の考古博物館、資料館を訪問すれば、段々と覚えます。ちなみに、釧・車輪石について参考になるブログ記事が有りました。
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