耽羅(済州島)紀行 その18 猫山峰(太王四神記撮影所)その2
承前 耽羅(済州島)紀行 その18 猫山峰(太王四神記撮影所)その1
(写真は翰林公園にて撮影)
4世紀末から5世紀初頭にかけて日本列島に関する中国の歴史書は沈黙しています。古来、謎の4世紀と呼ばれていました。従い、吉林省集安の高句麗の故郷にある『好太王碑文』は極めて重要な歴史の証人と言えます。昔は韓国の学者が日本陸軍が石碑を改竄したという説が主流を占めていた時期がありました。
倭が海を渡り百済・○○・新羅を破り臣民とするという箇所は、本来、日本軍が改竄する前は高句麗が海を渡り百済・倭寇・新羅を破り臣民としたと主張していた。しかし、この主張は1974年の日本の歴史学者、上田正昭さんが北京で入手した拓本は日本軍が関与する以前のものであり、改竄の跡は見つからなかった。又、2006年の中国社会科学院の調査でも改竄は存在しなかったという結論がでた。
何れにせよ、謎の日本列島の4世紀から5世紀初頭の姿が『好太王碑文』により、明らかとなったのです。倭の五王の時代になると日本列島の様子が中国側の歴史書に登場するのですが、邪馬台国の卑弥呼の記述以降、中国側の資料から日本列島の様子の記述が消滅している。
考古学的に考えると、発生期の初期の前方後円墳はヤマト盆地の東から南にかけての場所、オオヤマト古墳群、三輪山古墳群、イワレ古墳群に集中していたのが、河内の古市古墳群や百舌鳥古墳群に巨大な前方後円墳が築かれ、三輪山周辺に存在した王朝が崩壊し河内に新しい王朝が生まれたと考える水野祐さんの王朝交代説が有力と考えられる。
磐余・三輪山・オオヤマト時代の巨大前方後円噴に埋納されている鏡や宗教的色彩が強いものから河内の巨大前方後円墳の埋納物は鎧・甲・馬具と突然に戦闘的なものに急変している事からも王朝が交代したと考える考古学者が多いと思います。騎馬民族征服説を唱えた江上波夫さんの根拠の背景は此処にありました。
神功皇后の三韓成敗の記紀の記述は『好太王碑文』を論拠としている可能性があります。しかし、ヤマトタケルの息子である仲哀天皇が熊襲成敗が重要と言い、皇后が朝鮮半島出兵の方が利益があると論争し、結局、仲哀天皇は九州で不自然な急死をする。皇后はお腹に赤ちゃんを孕んだまま朝鮮半島に出兵したと記紀は語る。
そして、三韓を成敗し築紫に帰還し築紫の宇美で応神天皇を産む。日本の古代史は巫女さんの卑弥呼さんとか、ジャンヌダルクのような神功皇后(オキナガタラシ姫)と女性が活躍するのが面白い。神功・応神さんはヤマトに帰還しようとすると応神さんの腹違いの兄き二人が立ちはだかる。香坂皇子と忍熊皇子である。神功さんの懐刀の武内宿禰や和邇氏や海部氏の祖が神功さんを助け打ち破り応神王朝が誕生する。河内王朝の旗あげである。
私が今後研究したいと思っているのは、何故、三輪王権が崩壊し河内王権が誕生したか、その理由です。何故、オキナガタラシ姫は仲哀さんに反旗を翻したのか。息長氏は日本海、若狭湾から琵琶湖、木津川・桂川・宇治川・淀川水系、と海を活動の場とする海軍力を持つ氏族です。九州に出向く時も仲哀さんは瀬戸内海を行き、神功さんは若狭湾から日本海を西に航行し築紫に辿り着いている。
朝鮮半島では高句麗が南下を始め特に広開土王(好太王)が強力で百済も加羅も新羅も持ちこたえられない状況が生まれ、鉄資源を確保する為に神功さんは出兵するという政治的判断をしたのではないか。それについた側の海軍氏族がその後の加羅・伽耶の鉄資源の輸入権益を握ったのではないだろうか。住吉の神を抱く海軍氏族が神功・応神王権を支えたのかもしれない。
神功さんが応神さんを産んだ築紫の宇美、安曇系統では無い、筒系の海軍氏族が神功・応神王権を支えたのではないかと推論している。
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