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耽羅(済州島)紀行 その16 翰林邑 海岸地帯

 承前 耽羅(済州島)紀行 その15 翰林(かんりん)公園 財巌民俗村

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 翰林公園の海岸から眺める飛揚島です。1002年の高麗王朝時代に噴火した火山島です。

 高麗王朝時代と言えば、13世紀にモンゴルが朝鮮半島に進出し1259年には高麗王朝はモンゴルに屈服した。しかし、朝鮮半島ではモンゴルに屈服しない軍団が高麗王朝から離脱しモンゴルと戦う事になる。三別抄と呼ばれる軍団が最後までモンゴルと戦うのだ。かれらは、高麗軍ではなく、民族独立派の軍団として高麗軍とも戦う事になる。

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 彼らは、1270年に済州島の明月里(浦)に上陸し高麗軍を破りモンゴルと最後の決戦を済州島で行う事を決意する。

 しかし、1273年に彼ら三別抄の軍隊はモンゴルに敗れ、全滅する事になる。彼らは、鎌倉幕府に使者を送り共同戦線を張ろうと動くが、実らなかった。そして、モンゴルは済州島で三別抄を全滅させた翌年の1274年に日本を攻める事になった、元寇である。1281年にも再度モンゴルは日本を攻撃するが、又もや季節風の台風の餌食となった。

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 明月里の海岸(港)の城壁跡を眺めていると、風流な名前とはかけ離れた悲惨な歴史がこの場所に刻まれている事が考え、複雑な気持ちになった。

20111tanra_540  その後、牧胡の乱でも戦場になったようです。詳しくは、司馬さんの『耽羅紀行』を読まれる事をお勧めします。

 モンゴルは済州島を高麗から独立させ、元の直属として牧場としてモンゴル馬の生産地として活用することになります。多くのモンゴル人や漢人も入植し、馬の生産を行う島としてその後李朝が終焉するまで馬の生産地として済州島は役目を負わされた。

 又、政治犯の流刑先として済州島は利用された。チャングムも済州島に流刑されましたね。チャングムのテレビドラマでも済州島でロケが行われたそうです。洞窟の場面とか城邑民俗村でも撮影されたと思います。

 そうそう、『太王四神記』の撮影が行われた場所に行きましたね。次回、ご紹介します。

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