孫がいて何もできない
1歳半の孫の面倒は大変だ。二音節喋れるのは稀だ。ママは言える。イモも言える。(庶民的) バ=バスが好きである、特に、京都で見つけた掃除するバスは大好き、横浜の清掃車も大好きである。新幹線も大好きである。
果物が好物であるが、言葉が喋れないので、私が米国赴任したての頃のように、ゼスチャーで意志を伝えようとする。みかんは、両手で皮をむくしぐさをするが、それが可愛い。イチゴは最高で万歳のジェスチャーである。人間が言葉を喋り始めた頃を子供たちは再現しているんだろうか。研究対象として面白いかもしれない。
母の話では、私は言葉が喋れるのが随分と遅かったそうだ。小学校の低学年でも言葉が喋れなかったという。人により言語中枢の発達には差があるようだ。しかし、喋り始めると立て板に水を流すように喋り始めたという。おもろい、もんですね。
さて、古代史関連の記事とも疎遠ですが、先日、読売新聞で4世紀から5世紀に倭国の軍が朝鮮半島に請われて出兵した記事が掲載されていた。
『読売新聞記事 1月12日 岡本公樹記者 倭の軍 朝鮮側の要請か』
倭軍が朝鮮半島に進軍した証拠が最近の考古学成果で見つかり初めているそうだ。百済の山城、望夷(マニイ)城跡をはじめ加羅などでも、倭で作られたと考える甲冑約20点が発掘されたそうだ。倭の軍人が実際の戦闘に加わっていた可能性が高まった。もちろん、414年に建立された好太王碑には倭軍が朝鮮半島に進軍していた事実が記録されている。
大阪府池田市立歴史民俗資料館の田中晋作氏の意見を紙面で紹介している。それによれば、半島での戦闘から帰国した将軍らが、豊中市の桜塚古墳群東群の六つの古墳に埋葬されたと考えている。全長55メータの「御獅子塚(おししずか)古墳」など前方後円墳と円墳で構成され、甲や冑が計28点も見つかり百舌古墳群や古市古墳群に匹敵する数である。
実際に海を渡ったのは、3世紀の邪馬台国以来の有力豪族ではなく、桜塚古墳群のような、新興勢力であり、領土的野心ではなく、半島側の要請による派兵だと述べる。その理由は西晋が316年に滅亡し重しが取れた高句麗が半島を南進し、百済や加羅は倭国に援軍を要請した為であろうと考える。
岡山大学の松木武彦さんは、見返りは鉄であろうと述べている。
5世紀末に百済の南の地である、栄山江(ヨンサンガン)流域に10基以上の前方後円墳が出現するが、慶北大の朴天秀(パクチョンス)さんは、百済が雇った倭人の傭兵の長であろうと述べている。その理由は倭国はその当時、大王の後継者問題で混乱しており、九州勢力が百済に雇われたと考えている。
私はそうは考えていません、朝鮮半島西南部の栄山江流域は百済の時代でも馬韓として存続しており、九州の倭族と深い関係が存在していたと考えています。
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