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新聞記事メモ 『駅路 天武天皇が列島改造か』(読売)

 関東の正月は箱根駅伝で2日、3日と盛り上がっていた。この駅伝のルーツは天智・天武王朝時代に遡る事ができます。当時、五畿七道という高速道路の整備が始まっていた。当時、白村江で唐・新羅の連合軍に大敗し、植民地化の危機が迫っていた。隋・唐の王朝に学び、都から列島各地に情報と軍隊を大量に素早く移動させる道路網の整備が急がれた。

 『駅路』というのは、都と地方をつないだ直線幹線道路の事である。山陽道、西海道、東山道などを指す。道幅は12メータを越す直線道路であり、側溝を持っていた。大化改新の翌年に出された詔(みことのり)に駅馬・伝馬を置くことが記述され、壬申の乱の記述する『日本書紀』に駅家(うまや)の記述があり、このような幹線道路網の整備が始まっていた事が推測できる。

 新聞の記事では最近の発掘成果より、時代は少し下り、天武朝に大規模に整備されたという説が有力になっていると報道されている。その論拠となる発掘成果は以下である。

 「東の上遺跡」

 埼玉県所沢市の東の上遺跡にて1989年東山道の支線、武蔵道の一部が200メータに渡り発掘された。側溝の底から地鎮に使用した須恵器の坏(つき)が見つかり、7世紀の第三四半期末から第四四半期前半と鑑定された。

 参考 東の上遺跡(所沢市ホームページ)

 「大道東遺跡」

 群馬県太田市の大道東遺跡(だいどうひがしいせき)にて2004年に東山道が200メータの区間が発掘された。県埋蔵文化財調査事業団では7世紀第三四半期と鑑定している。

 参考 大道東遺跡「1」

 参考 大道東遺跡「2」

 天智朝か天武朝かの議論は続くようであるが、いずれにせよ国家存亡の危機の時に整備が始まったと考えていいと思う。一番重要視されたのは、都と大宰府を繋ぐ、山陽道と西海道であったそうで、大路であったいう。

 30里(16キロ)間隔で駅家が置かれ馬が20頭程度常に用意されていたという。緊急時には大宰府から都まで西海道・山陽道を馬が駆けていたのだ。箱根駅伝は1区が10キロ程度でしょうか、片道が100キロ程度だったと思います。ローマもインカも放射状に道路を整備した、国作りと道路は密接な関係があったのですね。

 ところが、平安時代に入ると大陸の制度を導入したこれ等の『駅路』は廃れてしまいます。その理由は、元来列島に住んでいた人々は河川や海の道を利用して集落が出来ており、国の都合で直線的に建設された国衙を繋ぐハイウエイは利用されなくなったという。飛鳥・奈良時代に大陸の制度を大胆に導入し中央集権国家を築いた日本は、平安時代から又、昔の河川・海を交通網とする社会になって行きました。

 さて、現在の我々の世界も随分と高速道路網と高速鉄道の網を整備しましたね。確かに便利になりましたが、地方は産業としても文化としても河川・海をハイウエイとする国家体制よりも貧弱になりつつある。各地の豊かな文化や産業を育む政策を考える時に、平安時代から江戸時代までの交通網と情報網と飛鳥・奈良時代の交通網を文化史・産業史的に研究すると面白いかも知れない。

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