橘(タチバナ)について
橘と言えば、平安京の紫震殿の右近橘を思い出しますね。左近は櫻です。元来、秦河勝の私邸を紫震殿にした訳で、桓武さんの好みだけではなく、秦氏の大陸の影響があったと思います。橘と古代日本人および、朝鮮半島南部の馬韓・弁韓・辰韓の人々にとり特別な植物でした。というか、南シナ海の海洋民族にとり特別でした。
「古今集」に『さつき まつ 花たちばな の 香を かげば 昔の人の 袖の香 ぞする』とあります、橘の花を袖に入れその匂いを楽しんだのですね。
「日本書記」によれば、垂仁天皇の時代に田道間守(たじまもり)に命じて、常世(とこよ)の国にその実を採らせに行かせたという伝説がある。その場所は、私が今月23日から出かける耽羅(済州 チェジュ)島の事である。田道間守は新羅皇子の天日鉾の子孫ですから、済州島と考えられる。
確か現代でもみかんは、韓国で、済州島でしか栽培できないと聞いている。谷川健一さんの『日本の地名』によれば、15世紀の朝鮮の地誌『東国與地勝覧』では、韓国ではタチバナについて、唯一、済州島を掲げ、金橘・山橘・洞庭橘・倭橘・青橘を記録しているという。谷川さんは既に済州島を訪問し三種類が今も存在していることを確認している。
橘の語源について、谷川氏は『顕(た)ち花』ではないかと推測されているようです。太陽の下でキラキラ美しく輝いて目立つ花となります。あるいは、タチバナのタチはカンダチ、神の顕現と解する事も出来る。イザナキが黄泉の国から帰り、「日向の橘の小門(おど)」でミソギをしたという記紀の記録が思い出される。
『タチバナのもう一つのエピソード』
皇極天皇3年に富士川のほとりにいた、大生部(おうべ)の多(おう)が村人にタチバナの樹についた虫を常世の神と称し、この神を祀る者は金持ちになり、長生きすると言いふらした。多くの人々が財産を投げ打ち、その虫を崇めたと言う。それを知った秦河勝は大いに怒り、大生部の多を滅亡させたという。
『書紀』ではこの虫は常に橘の樹に生る。或いは曼椒(ほそき)に生る。その長さ4寸余、その大きさ親指程度。その色緑にして黒まだらなり。ナミアゲハまたは、クロアゲハの幼虫の事であるらしい。季節を問わず熟して香しい木の実はまさしく、常世の果実と考えられたようだ。そのタチバナに卵を植え付けるものは、古代人にとり人間の魂のかたどりとみられた。
人間は常世を原郷とし、その魂は死後、常世に帰ると考えた。
実は、この富士川のほとりに居た、多氏について私は調べています。三輪山周辺で一番重要な場所は多神社と考えています。多氏は古事記編纂の太安万侶も墓誌がでており、意富臣もオウであり、神武天皇の皇子を祖とし九州の肥の国から常陸国まで一族が分散している。三輪王朝およびその後の王朝にとり、オオ、オウ、アオ氏は歴史を動かした氏族である。
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