アメノヒボコ(天日矛)と耽羅(済州島)
昨年12月に松葉蟹を食べに但馬国の城崎温泉に出かけた。この但馬国の一の宮が出石神社(いずしじんじゃ)であり名神大社である。祭神は天日矛(あめのひぼこ)であり、新羅の皇子とされている。八種の神宝を持ち来たり但馬の国に定住したという。
古事記によれば、何故日本に来たかが詳細に面白く記録されており、日本人の嫁さんが逃げたので、追いかけてきたという。しかし、難波に逃げた女房に会えず、但馬の国で嫁さんを見つけ定住したという。その逃げた女房の誕生潭は神秘的である。どうも、天日矛さんは、若狭・近江・播磨・但馬と足跡を残しているようだ。
そこで、垂仁天皇の時代に田道間守(たじまもり)が登場し記紀では天日矛の曾孫であると記録され、常世の国に非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めに派遣される。これは、耽羅(済州島)の橘の実(みかん)であると考えられている。しかし、帰国すると、既に垂仁天皇は亡くなっており、陵墓の上で泣いたという。
橘の名前の由来は、タジマバナ(田道間 但馬)ではないかと推測される。それほど、耽羅(済州島)と天日矛・但馬の関係は深い。
実は、韓国の歴史書である『三国史記』、12世紀の高麗朝に成立した歴史書があるが、躭羅が5世紀末に百済と初めて接触したとある。ようするに、それまでは独立国であったのだ。
高麗史によると、司馬遼太郎さんの話では、耽羅神話が掲げてあり、初めは島には人は存在していなかった、しかし、突然に漢(ハル)ラ山の北麓にある毛興穴(モフンヒョル)=三姓穴から三神人が現れた。年上が良乙那(ヤンウルラ)、次が高乙那(コウルラ)、三番目が夫乙那(プウルラ)である。
三人は荒野で暮らしていたが、ある日、日本の国使が来て三名の日本の女性を妃として与えたという。三神人はそれに従い、日本人の嫁さんを貰ったという。日本と耽羅は密接な関係が存在していたのです。多分、倭と呼ばれる人々は南朝鮮と九州沿岸の人々を指し、海を生活の場とする人々だったのでしょうね。
耽羅の始祖神話にも日本の嫁さんが登場し、新羅皇子の天日矛の神話にも日本の嫁さんの話が登場するのですから、南朝鮮半島や東シナ海に浮かぶ島々と九州は倭人と呼ばれる同一文化圏の人々であったと思います。
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