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耽羅(済州島)紀行 その5 赤ちゃんの揺りかご

 承前 耽羅(済州島)紀行 その4 民俗自然史博物館メモ(2)

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 赤ちゃんが揺りかごで揺られています。竹で編まれた底が丸い籠ですから、揺れるのです。実は籠の中間の位置に網が張られています、紐で碁盤の目のようにハンモックが作られており、その上にカヤを敷いて赤ちゃんを寝かせます。

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 この写真の方が判りやすいですね。中国の子供と同じでお尻の部分は切り裂いてあり、何時でもウンチが出来るようになっているそうです。島の女性は働き者、外で働いている時もこの揺りかごに赤ちゃんを入れ、寝かしているそうです。

 島は風が強いので、風で自動的に籠は揺れるそうです。手作業の時は足で籠を押して揺らすそうです。畑や外での作業が終わり帰宅する時は、赤ちゃんを籠から出し、籠を引っ繰り返せば、全ての汚物を一度に捨てる事が可能である。

 これは、優れた揺りかごであると、感心しました。素晴らしい知恵ですね。

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アジアカップ 優勝する

 ザッケローニというまるで関西の下町で出あうようなオジサンが監督になり無敗が続いている。イタリア人でしょうか、背が低く、顔がでかく、愛嬌のある顔である。

 韓国と準決勝で激突し、延長戦の最後の最後で追いつかれたが、PK戦で韓国は最初の二人が川島に止められ、三番目の選手がゴールを外し、珍しい3-0で日本はPK戦に勝った。決勝はオーストラリアとなった。

 昨夜、息子は、珍しく夜早く仕事から帰宅し自宅でサッカーを観戦すると言う。急いで茹で卵を作りラーメンを作り、冷凍しておいたカレーも準備した。

 私は寝ていたが、後半20分頃に一度トイレで起き、0-0を確認し、再度寝た。息子が勝ったよと言うので起きると日本選手が大喜びしている光景がテレビに映っている、1-0で勝ったようだ。延長戦後半に長友からのクロスにダイレクトボレーで李忠成が撃ち込んだようだ。見事なゴールでデイフェンダーが誰も居ない、長友の低いパスとシュートコースを消す為にオーストラリアのディフェンダーは長友の前に防御壁を作っていたのだ。

 李選手は在日4世だそうだ、何か継体天皇が応神天皇5世の孫を思い出し、列島に住む人間として明らかに昔から住んでいた人として、日本人の資格が十分だと思う。残念ながら足の指を骨折した香川選手の穴を埋めて活躍してくれました。日韓で勝ったようなものだ。

 しかし、長友という選手はよく走るしタフだと思う。幾多のチャンスを作っていたようだ。15キロも一試合で走るそうです。駅伝選手としても活躍できそうです。サッカーは走る格闘技なんですね。

 日本はこれで、4回目の優勝で参加国では最多優勝国となったそうです。

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耽羅(済州島)紀行 その4 民俗自然史博物館メモ(2)

 承前 耽羅(済州島)紀行 その3 民俗自然史博物館メモ

 司馬遼太郎の『耽羅紀行』で登場した北方騎馬民族である扶余族の痕跡について触れたいと思います。本来は耽羅の人々と北方系遊牧民とは何の関係も無いのですが、彼らは朝鮮半島の国々と交易をしていました、そして、13世紀末にはモンゴルが高麗王朝を倒し攻めて来ました。最後の激戦はこの島で行われた。

 その後、モンゴルが中国でも滅亡すると朝鮮半島からも引き上げたのですが、この島は放牧に優れた場所であり馬の生産場所としてモンゴルの一部の人々は残留し、その後も李朝時代も済州島は馬の一大生産場所として残されました。

 さて、北方騎馬民族である扶余族の習俗とは、双六で使う『サイコロ』のようなものです。

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(写真は 三伏一向 ト 豚 1点の状況)

 これ、韓国語でユッと呼ばれるサイコロとして使用されるものです。長さ10㌢太さ2㌢の丸太を縦割りにしてして出来たもの、4個をサイコロとして利用する遊びです。写真のものは短い木片ですが、本来は長さ10㌢程度はある蒲鉾型の棒だそうです。

 この4個の木片を同時に投げ、其々の木片の形状(仰向けか伏せてるか)のパターンにより点数が決まるという。司馬さんの話では、

 三伏一向 →ト→豚→1点

 二伏二向→ケ→犬→2点

 一伏三向→コロ、コル→象→3点

 四向   →ユッ→牛→4点

 四伏   →モ →馬→5点

 長さ10㌢程度の木の枝があれば、半分に縦で割れば直ぐにサイコロが出来てしまう。便利なサイコロではないですか。4個の木片を片手で持ち投げる、そして4個の木片が上向きか、うつ伏せか、その状態で数字を決める。占いでも使用出来ますね。

 私たちが馴染の正六面体のサイコロですが、これもインダスのハラッパーか中国が起源だそうで、今回の棒状のサイコロと二種類存在したそうです。とにかく、サイコロの起源はアジアにあるそうですよ。

 本題に戻りますが、司馬さんが耽羅紀行の途中で、ある港で男たちがこのサイコロ『ユッ』を使用して遊んでいた所を目撃したそうだ。そして、話は日本の万葉集の時代に飛び、日本人もこの『ユッ』を使用して遊んでいた事が万葉集に残されているという話に展開した。

 

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耽羅(済州島)紀行 その3 民俗自然史博物館メモ

 承前 耽羅(済州島)紀行 その2 済州道民俗自然史博物館

 民俗自然史博物館を観て歩いた感想を記録しておきます。

 『南方の香りがするもの』

 沢山の黒潮に乗って南の島々から到来した文化・文明を観る事が出来ました。その中で特に印象深いものをメモします。

 1.石像物

 島の至る所で石のお爺さんトルハルバンを観る事が出来ます。今は高麗・李朝の影響を受け頭に帽子(冠)を被っていますが、遠方から観るとヒンドゥー教のリンガに見えます。本当は帽子(冠)ではなくて、リンガではないのかという疑惑があります。

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 死者の墓に置かれる石像物には死者が生前に愛したものをお腹の真中で合わせた両手に持たせて彫刻されています。両手をお腹の真中に合わせるポーズはトルハルバンと同じであり、明日香の猿石と類似しています。

 参考 明日香紀行(2) 謎の石像物群

 明日香の猿石群は飛鳥京の時代に迎賓館が存在した場所あたりから発掘されており、飛鳥京を訪問する海外からの訪問者などを接待した場所に設置されていた。

 ある人の説では、実は耽羅の人々が明日香の猿石群を作ったのではないかと仮説をたてています。斉明天皇の時代、百済が新羅・唐連合に攻め滅ぼされる時代に耽羅の使節団は飛鳥に来ました。当時、耽羅は百済に朝貢する国でした。戦争は避けられない事態を察した耽羅の国の人々はヤマト王権と相談に来たのでしょう。

 私は、長期に耽羅の使節団は迎賓館に留め置かれたと考えています。簡単には、耽羅対して政治的な回答は出来なかったでしょう。その間に、使節団は伎楽や相撲を観て過ごしたと思います。そして、彼らはその印象を石に彫刻したと考えると耽羅風の石像物が出来あがったと解釈出来ます。

 参考 済州道民俗自然史博物館写真集

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新燃岳(霧島山系)噴火

 鹿児島と宮崎の県境にある霧島山系の新燃岳が噴火している。

 ニュース画像を観ると凄まじい噴煙が湧きあがり、雷が鳴り、噴石が飛び散っている。凄まじい姿である。昨日は北北西の風だったが今日は西風になり宮崎方面に降灰被害が出ている。地図を調べると霧島山系とは北から1700メータの韓国岳、そして、新燃岳、高千穂と続く山系を総称して霧島山系と呼ぶようだ。

 この韓国岳という名前ですが、この山に登れば韓国が見えるという意味ではないと思います、ある説では豊前から移住した秦氏が命名したと伝説があります。

 参考 秦氏に関するメモ 秦氏の大隅への移住

 秦氏に興味がある人は、最近の秦氏に関するメモを参考にして下さい。

 参考 秦氏に関するメモ 目次編

 この立ち上る豪快な噴煙と夜の焔を観ていると、日本神話で神が降臨する場所に相応しいような気がしてきました。高天原から降臨する場所は出雲とばかり考えていたのが、何故か南九州の高千穂の峰である。唐突な話の展開であり、古来、謎とされて来た。

 ヤマト王権に最後まで戦いを挑んだのは隼人である。ヤマト王権は豊前の国の宇佐を本拠地とし渡来系の最大の豪族である秦氏を使い隼人を制御する為に大隅に移住させた。しかし、その後も奈良時代、隼人は反乱を繰り返した。

 ヤマト王権の始祖神は高千穂に降臨しなければならない理由とは何だろうかと考える。あの凄まじい霧島山系の噴火とそれを恐れる隼人を制圧する為に高千穂に降臨させたと考えても不思議はない。天武天皇の飛鳥から平城京に移る時代が記紀が成立した時代背景である。

 参考 新燃岳二回目の噴火

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耽羅(済州島)紀行 その2 済州道民俗自然史博物館

 承前 耽羅(済州島)紀行 その1 歴史上の謎

 耽羅(済州島)の人々は明らかに北方遊牧民では有りません。南の島々、海洋民族の仲間であると考えられます。その理由は、彼らの民俗学的な調査により明らかであります。島の北に耽羅国を建設した三人の神が登場した三姓穴という場所があるのですが、その隣に済州道民俗自然史博物館があります。

 博物館を眺めれば、概略の耽羅の古代の姿が見えて来ます。

 マイフォト 済州道民俗自然史博物館 写真集

 写真集に詳細な説明メモを掲載しておきました、是非参考にして観て頂ければ面白いと思います。

 

 

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耽羅(済州島)紀行 その1 歴史上の謎

 承前 済州島(耽羅)から帰国しました

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 済州島という韓国に属する島を御存知でしょうか。13世紀末までは耽羅と呼ばれる独立国でした。韓半島南部の海上に浮かぶ巨大な海底火山の噴火(約200万年前)により出来た島であり、地元ガイドさんの話では、およそ大阪府と同じ程度の大きさです、1845km²人口60万人。ちなみに、大阪府は1897km²で884万人規模です。

 司馬さんは、耽羅の大きさと人口を考える時に、香川県と比較しています、香川県は1876km²、人口99万8千人ですから、イメージは香川県が良さそうですね。いずれにせよ、それほど巨大な島であり国でした。

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 海上の位置よりお判りのように、朝鮮半島・中国・日本との海上交通の中心に位置しています。人口は約60万人と少ない、その理由はこの島が火山島としての成り立ちと関係が深く、雨が降ると殆ど地下に沁み込み、僅かに海岸地帯で湧きだす地形にあります。陸地では水がありません。そして、30センチも掘ると岩盤です、農耕が出来る状況ではないのです。従い、古来、人々は海岸に住み漁労中心の生活でした。

 海上の位置関係より、さぞや古来、中国・朝鮮半島・日本との交易で貿易港として栄えたと考えられそうですが、それが駄目だった。その理由は、島には川が殆ど無く従い、木造船が停泊できる良港に恵まれないからです。秋から冬にかけ、北西風が強く吹き付け島の北側(朝鮮半島方面)では強い風を受け、良港が得られない。島の南の方が風の影響も無く、温暖であり中国・日本との貿易港としては立地条件が良かった。しかし、13世紀以降は朝鮮半島の国に属した為に北側の僅かな港をメインの港とせざるを得なかった。

 島の中央には韓国最高峰の漢拏山(はるらさん)1950メータが聳えています。廻りを対馬暖流が流れているので、温暖である。特に漢拏山の南斜面では温暖でありミカンが特産品となっている。植生は温帯に属し、日本列島と同じであり朝鮮半島とは異なる。習俗も倭人の習俗を思わせる。特に海女は1970年でも14000人も存在していた。

 『耽羅の謎(済州島)』

 1.建国神話と倭国

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 ・朝鮮の『高麗史』、『世宗実録』によれば、高さん、良(梁)さん、夫さんという三名の神人が漢拏山の北麓の穴からこの世に出現した。(現在、三姓穴として伝説遺跡保存されている)ある時、東の国の碧浪国(日本と考えられている)からの使者が渡来し、三名の姫と馬と五穀をもたらし、王妃となり、国の建設を助けた。

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 ・徐福伝説の瀛州(ヨンジュ)が耽羅であるという伝説もあり、北部の東門市場の近くを流れる川には徐福が上陸時に石に記録したという『朝天石』が残されている。徐福は漢拏山で仙薬を探したが見つからず、此の地を去ったという。日本へ向かった。

 ・嫁さんや農耕を日本が伝えたという事は、済州島の女性の仕事は、昔は海女さんであり、同時に海岸で畑を耕していた事と関係があるのかも知れない。(男は今でも働かない事で有名だそうだ)

 

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済州島(耽羅)から帰国しました

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 済州島(耽羅)から無事帰国しました。帰りは1時間40分で成田に到着します、何と、近い場所ではないですかね。韓国のハワイと聞いていたが、大間違い、毎日雪が降るし、風は強いし、厳しい旅となりました。確かにソウルは氷点下17度ですから、それに比較すれば、ハワイかも知れない。

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 問題は成田に到着後です、私は初めての経験ですが着陸した滑走路が遥か離れた場所にあり、着陸したのは午後8時7分そこから、ゲートまでタキシングで20分も必要とした。どういう飛行場やね?といいたいですね。私も家内も荷物は預けていないので、8時43分の特急電車で日暮里に向かおうとしたが、タッチの差で乗り遅れ、8時47分の快速で日暮里に向かうが何と沢山の駅で停車し、結局、大倉山駅に到着したのは夜の11時半を廻っていた。成田から何でこんなに普通の交通手段で帰るのに時間がかかるのか。

 以前は、成田から100分で横浜に到着する直通バスを利用していたが、一人3700円もかかるので、二人で7千円もかかり、年金暮らしの老夫婦には向かない。ちなみに、羽田であれば、我が家から歩いて数分の新横プリンスホテルから40分800円程度で行けるのだ。もう、成田はコリゴリですね、出来れば羽田だけを利用したい。

 そうそう、耽羅国、良かったです。司馬遼太郎さんの『耽羅紀行 街道をゆく』を再度、読み直していた事と、事前に、記紀での耽羅に関する記事を確認していた事も良かったです。最初の写真はトルハルバンの石像と萱葺きの家です。二枚目の写真は城山日出峰から眺めた耽羅の東海岸です。

 

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2011年 大倉山梅園 梅が咲き始める

 承前 2010年度 大倉山梅園二分咲き

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 大倉山梅園の梅便りです。毎年、1月20日頃に観測していますが、今年も咲き始めました。

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 未だ、咲き始めですからあと2週間程度すれば、見頃になるのではないでしょうか。

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纏向遺跡 大型建物跡南土坑出土遺物

  承前 2010年9月記事 纏向遺跡大型建物跡南土坑 2千桃の実出土

 本日、2011年1月22日朝刊(読売新聞)では、『纏向遺跡から多様な供物 アジ、シカ、稲、子の実・・・・・ 』強大な権力 祭祀の跡か。という、見出しで記事が載りました。

 産経ニュース 『纏向遺跡から山海の幸、祭祀の供物で並べられたか』

 昨年9月に発表された、纏向遺跡の大型建物跡の南5メータの地点に位置する土坑から多量の桃の実(約2千個)が発見され、祭祀の痕跡であると話題になりました。今回はその土坑の土に含まれていた動物遺体・植物遺体の分析結果が桜井市教育委員会より発表された模様です。

 土嚢400個という多量の土を分析したようだ。動物遺体は宮路淳子(奈良女)さん、植物遺体は金原正明(奈良教育大)さんが担当されたようです。約3カ月間分析されたのでしょうね。

 読売新聞の報道では、マダイ、アジ、サバなどの近海魚のほか、コイの仲間の川魚など6種類以上の魚の骨や歯、ウロコを確認したそうだ。動物では、イノシシやシカに加え、鴨の仲間の骨も含む千数百点も見つかった。

 植物遺体関連では、稲、アワなどの種や実など73種類9760点を確認したという。中でも麻の種は535点、紙の原料で実が食べられるヒメコウゾの種は480点が出土したという。土壌には海藻に付着する植物性プランクトンも含まれ、ワカメなどがあったと推測された。又、桃の花粉も検出され、近くに桃園があったのではないかと考えられる。

 出土した骨などは、桜井市立埋蔵文化財センターで22日~2月27日(月・火休館)の期間展示されるそうです。

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懐かしい写真

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 懐かしい写真です、横浜に転居した頃の写真でしょうね。私の母と宇治のお姉ちゃんが写っています。未だ、息子は生まれていない頃でしょうね。家内も私も若い頃で、娘二人も小さいです。

 何故か、フォトスタンドに入れられた写真でした。渋谷の母の妹が病気の時に母と姉が関西から来た時の写真かもしれない。であれば、息子は既に生まれていたので、写真にいないのは不思議である。ひょっとすると、1982年に米国に駐在する前の写真かもしれない。

 

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煙草を捨てて2週間

 早いもので、突然に煙草を捨てて2週間が経過したようだ。先日夜、夢の中で煙草を吸い急いで捨てる夢を観た。時折、何時も煙草を吸っていた場所に行き、何かをしようとするが、そうだ、煙草は捨てた事を思い出す。何事も突然に局面を変える方が好きだ、周到なる準備は嫌いだ。どうやら、家内も私が本気で煙草を捨てた事を認識し、家で備蓄していた煙草を何処かに持ち去ったようだ。

 私も今年は65歳になる、身の回りを整理しておかないといけませんね。死んだあと、ゴミばかりが残っているのでは、情けない。お陰で、この10年位は物欲が無くなった。昔は衣類や万年筆やカバン、色々と銀座の酒場にでかけても恥にならない物を持つ事を心がけていた。最近は全く無くなった。

 無性に勉強がしたくなり、本を読んだり、色んな現場に出駆けて生きている間にこの目で観ておきたいという煩悩だけが残った。余ほど昔、勉強しなかった反動なのかもしれない。

 『子供の教育について』

 子供の教育に関してですが、ゲームと遊園地は子供の為にならないという考えです。昔はゲームソフトの開発を仕事でやっていた人間が言うのは自己矛盾です。しかし、やっぱり、駄目だと思う。人が考えた世界の中で遊ばせて貰っているだけである。其処には、偶然も発見も危険な事も知的欲望を刺激する過激なものは存在しない。

 森の中で虫を追いかけている方が偶然や危険な事や、知的欲望を刺激する世界が広がっている。子供は危険な遊びが好きである、元来、そうなんだと思う。そして、残酷である。田圃の水路でザリガニを探したり、モンドリを設置して魚を捕獲したりする方が知恵を使う。しかし、危険な遊びである。孫の教育を考えると、そんな遊びは危険でさせる事が出来ない。

 であるとすれば、何故、自分の子供の頃はそんな危険な遊びが出来たのでしょうね。何故、私の親はそんな遊びを許したのだろうかと、最近、考えるようになった。昭和20年代は焼け野原、生きる事で精いっぱいの時代ですから、親が子供の面倒を見る余裕も無かったのが、現実ではなかったでしょうか。今のように、電気製品も無いし、主婦は忙しい、生きるのが大変な時代でした。

 子供の水難事故や怪我は多かった事でしょうね。何せ、夏は近くの新池や木津川で泳いでいた訳ですから、死んだ子供達は多かったと思います。自然の淘汰が存在していたんでしょう。私が子供の頃に教えられたのは、言葉使いと食事の作法でした。生まれ育ちが判る、大事な事だと言われた記憶が今も残っています。

 

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枚方九頭神遺跡(ひらかた くずがみいせき)

 参考 枚方市 九頭神遺跡

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 先日、考古調査士の某氏から大阪府立近つ飛鳥博物館の招待状を二枚頂いた。『歴史発掘 おおさか』大阪府発掘調査最新情報とあります。期間は1月22日から3月13日までのようです。

そこで、興味を引いたのは3月13日(日)に予定される講演「枚方市九頭神遺跡」である。是非、聴いてみたいと思います。しかし、残念ながら3月14日からペルーへの旅に出るので、大阪で講演を聴く事は出来ない、残念だ。

 九頭神遺跡は私が小学校4年生の頃から大学時代まで過ごした実家のすぐ近くの遺跡です。飛鳥時代に建立された寺院址があり平安中期に廃絶した寺址です。

 参考 枚方市指定史跡 九頭神廃寺

 私が子供の頃は未だ本格的な発掘がされていませんでした。最近の資料を見ると随分と大規模な寺院址である事が判りますね。式内社の久須々美(くすすみ)神社もこの場所に存在していたのですね。今は片埜神社に祀られているようです。

 参考 久須々美神社

  衛星写真で観ればよく判りますが、片埜神社や九頭神廃寺、久須々美神社、等々の場所は高台にあり、近くを穂谷川が流れ淀川に注いでいます。交通は淀川水系の穂谷川のほとりに位置しています。実は、写真でもお判りの穂谷川の南に牧野車塚古墳が存在しています。

 参考 禁野車塚古墳と牧野車塚古墳

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アメノヒボコ(天日矛)と耽羅(済州島)

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 昨年12月に松葉蟹を食べに但馬国の城崎温泉に出かけた。この但馬国の一の宮が出石神社(いずしじんじゃ)であり名神大社である。祭神は天日矛(あめのひぼこ)であり、新羅の皇子とされている。八種の神宝を持ち来たり但馬の国に定住したという。

 古事記によれば、何故日本に来たかが詳細に面白く記録されており、日本人の嫁さんが逃げたので、追いかけてきたという。しかし、難波に逃げた女房に会えず、但馬の国で嫁さんを見つけ定住したという。その逃げた女房の誕生潭は神秘的である。どうも、天日矛さんは、若狭・近江・播磨・但馬と足跡を残しているようだ。

 そこで、垂仁天皇の時代に田道間守(たじまもり)が登場し記紀では天日矛の曾孫であると記録され、常世の国に非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めに派遣される。これは、耽羅(済州島)の橘の実(みかん)であると考えられている。しかし、帰国すると、既に垂仁天皇は亡くなっており、陵墓の上で泣いたという。

 橘の名前の由来は、タジマバナ(田道間 但馬)ではないかと推測される。それほど、耽羅(済州島)と天日矛・但馬の関係は深い。

 実は、韓国の歴史書である『三国史記』、12世紀の高麗朝に成立した歴史書があるが、躭羅が5世紀末に百済と初めて接触したとある。ようするに、それまでは独立国であったのだ。

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孫との日々

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 孫はコンクリート・ミキサー車が大好き。

婆ちゃんに連れられて、散歩です。男の子ですね、携帯電話やパソコンが大好き、孫のそばでは使えないです。

 京都で風邪をひいてしまい、心配しましたが、医者がくれた薬を飲み、快方に向かっています。

 今日は天気が良く、太陽が照る場所ではとても温かったですね。

 6人分の布団を今日は天日干しです、専用バルコニーがあるので、便利です。孫と二人で、上空を飛び交う雀や鳩やカラスを眺めていました。

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橘(タチバナ)について

 橘と言えば、平安京の紫震殿の右近橘を思い出しますね。左近は櫻です。元来、秦河勝の私邸を紫震殿にした訳で、桓武さんの好みだけではなく、秦氏の大陸の影響があったと思います。橘と古代日本人および、朝鮮半島南部の馬韓・弁韓・辰韓の人々にとり特別な植物でした。というか、南シナ海の海洋民族にとり特別でした。

 「古今集」に『さつき まつ 花たちばな の 香を かげば 昔の人の 袖の香 ぞする』とあります、橘の花を袖に入れその匂いを楽しんだのですね。

 「日本書記」によれば、垂仁天皇の時代に田道間守(たじまもり)に命じて、常世(とこよ)の国にその実を採らせに行かせたという伝説がある。その場所は、私が今月23日から出かける耽羅(済州 チェジュ)島の事である。田道間守は新羅皇子の天日鉾の子孫ですから、済州島と考えられる。

 確か現代でもみかんは、韓国で、済州島でしか栽培できないと聞いている。谷川健一さんの『日本の地名』によれば、15世紀の朝鮮の地誌『東国與地勝覧』では、韓国ではタチバナについて、唯一、済州島を掲げ、金橘・山橘・洞庭橘・倭橘・青橘を記録しているという。谷川さんは既に済州島を訪問し三種類が今も存在していることを確認している。

 橘の語源について、谷川氏は『顕(た)ち花』ではないかと推測されているようです。太陽の下でキラキラ美しく輝いて目立つ花となります。あるいは、タチバナのタチはカンダチ、神の顕現と解する事も出来る。イザナキが黄泉の国から帰り、「日向の橘の小門(おど)」でミソギをしたという記紀の記録が思い出される。

 

 

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孫がいて何もできない

 1歳半の孫の面倒は大変だ。二音節喋れるのは稀だ。ママは言える。イモも言える。(庶民的) バ=バスが好きである、特に、京都で見つけた掃除するバスは大好き、横浜の清掃車も大好きである。新幹線も大好きである。

 果物が好物であるが、言葉が喋れないので、私が米国赴任したての頃のように、ゼスチャーで意志を伝えようとする。みかんは、両手で皮をむくしぐさをするが、それが可愛い。イチゴは最高で万歳のジェスチャーである。人間が言葉を喋り始めた頃を子供たちは再現しているんだろうか。研究対象として面白いかもしれない。

 母の話では、私は言葉が喋れるのが随分と遅かったそうだ。小学校の低学年でも言葉が喋れなかったという。人により言語中枢の発達には差があるようだ。しかし、喋り始めると立て板に水を流すように喋り始めたという。おもろい、もんですね。

 さて、古代史関連の記事とも疎遠ですが、先日、読売新聞で4世紀から5世紀に倭国の軍が朝鮮半島に請われて出兵した記事が掲載されていた。

 『読売新聞記事 1月12日 岡本公樹記者 倭の軍 朝鮮側の要請か』

 倭軍が朝鮮半島に進軍した証拠が最近の考古学成果で見つかり初めているそうだ。百済の山城、望夷(マニイ)城跡をはじめ加羅などでも、倭で作られたと考える甲冑約20点が発掘されたそうだ。倭の軍人が実際の戦闘に加わっていた可能性が高まった。もちろん、414年に建立された好太王碑には倭軍が朝鮮半島に進軍していた事実が記録されている。

 大阪府池田市立歴史民俗資料館の田中晋作氏の意見を紙面で紹介している。それによれば、半島での戦闘から帰国した将軍らが、豊中市の桜塚古墳群東群の六つの古墳に埋葬されたと考えている。全長55メータの「御獅子塚(おししずか)古墳」など前方後円墳と円墳で構成され、甲や冑が計28点も見つかり百舌古墳群や古市古墳群に匹敵する数である。

 

 

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願をかけた

 煙草を吸わなくなって、一週間が経過した。別に自分の健康の為に禁煙したのではない。新年に私の旧友二人が肺癌の宣告を本人達が受けた。自分で何が出来るか、自分が大好きな煙草を止める事にした。40数年以上に渡り習慣となっていた喫煙を止めることにした。これは、古来日本列島に存在する、願かけ、の風習なんでしょうね。

 私の両親は十歳過ぎの娘を病気で亡くした経験を持ち、その時から、父は大好きな魚釣りを止め、母は四足を絶った。これも願をかけたのでしょうね。

 願をかけた内容は、秘中の秘でなければ、効果は生まれない。これも、古来の風習であるが、何故かそのうち周囲では判るのも面白い。ゆったりとした、列島に住む人々のおおらかさが素晴らしい。白か黒か相手に要求しないし、要求されても冗談で回答をすり抜ける。この世には白と黒の世界だけではなく、四季折々の豊富な色彩が存在する。

 ともかく、自分がやれることは、大げさな話ではないのですが、旧友二人には是非元気な身体を取り戻して欲しいと思います。

 

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京都は寒かった

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 月曜日、朝起きると、寒い、雪がパラパラと降っており、庭木の上にも薄化粧でした。孫を連れて祇園四条の辻里に寄り、八坂さんを初詣して高台寺の前を通過し、清水さんに向かった。

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 産寧坂の正月の風景です。

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今日から忙しい

 今日の朝は冷え込んだ、お陰で富士山が美しい。

 今日から我が家は孫×2と娘が帰ってくるので、忙しい。普段は家内と息子の三人家族で静かなものだ。それが、三人も増えると賑やかになる。お年玉の袋を用意して名前を書き入れ、準備完了である。

 子供の頃は世の中貧乏のどん底でしたから、正月のお年玉は子供にとり大事だった。幸い、私は4人兄弟の末ッ子でしたから、お姉さんからも貰えたような記憶があります。堅実なjo君は貰ったお年玉は全て郵便貯金で積み立てていた。

 考えてみると、昭和20年代は物が無い時代ですし、北河内の田舎ですから、お店も無いし、買うものが見当たらなかったのかも知れない。最近は物は豊富であるし、魅惑的な物が沢山あるし高価だから、お年玉の金額も跳ね上がっている。

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新聞記事メモ 『駅路 天武天皇が列島改造か』(読売)

 関東の正月は箱根駅伝で2日、3日と盛り上がっていた。この駅伝のルーツは天智・天武王朝時代に遡る事ができます。当時、五畿七道という高速道路の整備が始まっていた。当時、白村江で唐・新羅の連合軍に大敗し、植民地化の危機が迫っていた。隋・唐の王朝に学び、都から列島各地に情報と軍隊を大量に素早く移動させる道路網の整備が急がれた。

 『駅路』というのは、都と地方をつないだ直線幹線道路の事である。山陽道、西海道、東山道などを指す。道幅は12メータを越す直線道路であり、側溝を持っていた。大化改新の翌年に出された詔(みことのり)に駅馬・伝馬を置くことが記述され、壬申の乱の記述する『日本書紀』に駅家(うまや)の記述があり、このような幹線道路網の整備が始まっていた事が推測できる。

 新聞の記事では最近の発掘成果より、時代は少し下り、天武朝に大規模に整備されたという説が有力になっていると報道されている。その論拠となる発掘成果は以下である。

 「東の上遺跡」

 埼玉県所沢市の東の上遺跡にて1989年東山道の支線、武蔵道の一部が200メータに渡り発掘された。側溝の底から地鎮に使用した須恵器の坏(つき)が見つかり、7世紀の第三四半期末から第四四半期前半と鑑定された。

 参考 東の上遺跡(所沢市ホームページ)

 「大道東遺跡」

 群馬県太田市の大道東遺跡(だいどうひがしいせき)にて2004年に東山道が200メータの区間が発掘された。県埋蔵文化財調査事業団では7世紀第三四半期と鑑定している。

 参考 大道東遺跡「1」

 参考 大道東遺跡「2」

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2011年 正月三が日が終わる

 今日は卯年の4日で皆さんは仕事はじめですね。

 今年の正月は何もせずに、おせちを食べて酒を飲みゴロゴロして過ぎ去った。

 『料理編』

 今年の印象は、黒豆が上手に出来た事ですね、帯広の豆は安くて美味しかった。普通は水に長く漬けるのだが、いきなり煮汁に漬けるという料理法の豆でしたが、美味しかった。数の子も今年は最高でした、薄い小さじ半分程度の塩を入れた水で塩抜きが上手に出来ました。

 煮物編ではしいたけが美味しく出来ました。子供の頃はしいたけは嫌いでしたが、シルバー年代になると美味しく思うようになりました。味覚が変わるのでしょうね。北海道の娘婿が送ってくれた、タラバ蟹も美味しかった。殻は鍋に入れて美味しい出汁が取れるし、カレーの出汁にも良かった。

 大根と人参の「なます」は多量に作りすぎ、難儀した。可哀そうに、家内が毎日、「なます」の消費に奮闘していました。恒例の、奈良の「それから」家のおにしめ、「道産子てつ」さんの家のおにしめ、ブログの写真を楽しませて貰っている。素晴らしい、伝統ある日本人の風習は素晴らしいと思う。

 『年賀の電話』

 メキシコの娘や北海道の娘家族からの年賀の電話は家内の楽しみのようです。宇治の一人住まいの80歳過ぎの父に電話したり、私は新大阪空港近くの熊取の田舎に住む姉にも年賀の電話をした。宇治の姉には年末に電話を入れ、楽しかった金婚式記念の飛鳥Ⅱでの瀬戸内海・九州旅行の印象を聴いて、うらやましいと思っていた。

 『年賀状』

 今年は年末の20日頃に既に郵便局に投函しておいた。今年の年賀状は『トルコ紀行』の時の写真を利用して作成した。二枚、住所が異なるという事で返却されて来た。昔はアバウトな住所でも届けてくれたが、最近は駄目のようだ。私が生まれ育った故郷の北河内郡大字招堤村(今は違います)の小学生時代からの同期の村の名士さんに送ったものが返却されてきた。彼からの年賀状が届いたので住所を調べると、番地が少し違うだけである。

 昔なら、招堤村で彼の名前だけで届いた筈なんだが、最近はアバウトなのは排除されるようで、残念だ。世の中せちがらく、なったもんですね。何か、社会におおらかさが無くなったようで、残念だ。最近の民主党の官房長官を観ていると、エリート過ぎてボケっとしてる私などは何時も叱られているようで、人気が出ないのと違うのかな~と思ってしまう。

 私も今年は65歳になる、友人関係者ともに現役を引退した人からの賀状となり、仕事とは関係がなくなり、賀状も第二の人生の模様が色濃く反映される。一番面白かった賀状は、大学時代ワンゲルで一緒だった御仁が一人で世界中を旅している写真入りの賀状でした。世界各地での見知らぬ人の家に宿泊して世話になり旅をしている。ワンゲル精神が今も残っている姿に感動した。ワンゲルとは見知らぬ土地の見知らぬ人々との交流で何かを得、又、何かを与えるのが本質でしたからね。

 会社の大先輩からの年賀状で従来はヒマラヤとか山を歩いている写真入りでしたが、流石に最近は体力が衰えたのか、違う世界の賀状である。今年は、昨年暮れにニューヨークのカーネギーホールでの小澤征爾さんのコンサートに出かけた賀状でした。テレビでも、特番が組まれていましたが、癌と戦いながら指揮する彼の姿には鬼気迫るものがありました。

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明けましておめでとうございます

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 2011年 元旦の富士山です。

 今年も宜しくお願いします。皆さまのご健康とご健勝をお祈り申し上げます。

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