耽羅(済州島)紀行 その3 民俗自然史博物館メモ
民俗自然史博物館を観て歩いた感想を記録しておきます。
『南方の香りがするもの』
沢山の黒潮に乗って南の島々から到来した文化・文明を観る事が出来ました。その中で特に印象深いものをメモします。
1.石像物
島の至る所で石のお爺さんトルハルバンを観る事が出来ます。今は高麗・李朝の影響を受け頭に帽子(冠)を被っていますが、遠方から観るとヒンドゥー教のリンガに見えます。本当は帽子(冠)ではなくて、リンガではないのかという疑惑があります。
死者の墓に置かれる石像物には死者が生前に愛したものをお腹の真中で合わせた両手に持たせて彫刻されています。両手をお腹の真中に合わせるポーズはトルハルバンと同じであり、明日香の猿石と類似しています。
明日香の猿石群は飛鳥京の時代に迎賓館が存在した場所あたりから発掘されており、飛鳥京を訪問する海外からの訪問者などを接待した場所に設置されていた。
ある人の説では、実は耽羅の人々が明日香の猿石群を作ったのではないかと仮説をたてています。斉明天皇の時代、百済が新羅・唐連合に攻め滅ぼされる時代に耽羅の使節団は飛鳥に来ました。当時、耽羅は百済に朝貢する国でした。戦争は避けられない事態を察した耽羅の国の人々はヤマト王権と相談に来たのでしょう。
私は、長期に耽羅の使節団は迎賓館に留め置かれたと考えています。簡単には、耽羅対して政治的な回答は出来なかったでしょう。その間に、使節団は伎楽や相撲を観て過ごしたと思います。そして、彼らはその印象を石に彫刻したと考えると耽羅風の石像物が出来あがったと解釈出来ます。
明日香の猿石群にはヒンドゥーの影響を強く感じます、巨大な陽物を両手で抱いている姿は明らかに南方の島々に伝播したヒンドゥー教の影響を想起させます。実は、昨年秋にバリ島とインドネシアの博物館を訪問し、猿石の原型ではないかと思われる石像物を探しに行く計画でした。残念ながら、噴火により旅行は中止となっています。
耽羅の石像物は13世紀末までは朝鮮半島の文化に影響を受けていないのですが、その後、高麗朝・百済・新羅・李朝と北方遊牧民の文化・文明の影響を受け変化したと考えます。民俗博物館に集められた石像物は現実に島の墓に設置されていた石像物です。石像物が造られた時代の影響を受けていると思いますが、根底にあるものは変わらないと思います。
日本の田舎の野辺にひっそりと佇む石仏と何処か似てる気がするのです。そして、意外と道祖神はエッチなところが有りますね。これは、アンコールワットからタイ、ジャワと南周りで伝播したヒンドゥー教と小乗仏教の影響ではないでしょうか。
洛東江を遡った海洋系の民族は安東でもその痕跡を残しています。昨年訪問しましたが、リンガを観る事が出来ました。
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