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耽羅(済州島)紀行 その1 歴史上の謎

 承前 済州島(耽羅)から帰国しました

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 済州島という韓国に属する島を御存知でしょうか。13世紀末までは耽羅と呼ばれる独立国でした。韓半島南部の海上に浮かぶ巨大な海底火山の噴火(約200万年前)により出来た島であり、地元ガイドさんの話では、およそ大阪府と同じ程度の大きさです、1845km²人口60万人。ちなみに、大阪府は1897km²で884万人規模です。

 司馬さんは、耽羅の大きさと人口を考える時に、香川県と比較しています、香川県は1876km²、人口99万8千人ですから、イメージは香川県が良さそうですね。いずれにせよ、それほど巨大な島であり国でした。

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 海上の位置よりお判りのように、朝鮮半島・中国・日本との海上交通の中心に位置しています。人口は約60万人と少ない、その理由はこの島が火山島としての成り立ちと関係が深く、雨が降ると殆ど地下に沁み込み、僅かに海岸地帯で湧きだす地形にあります。陸地では水がありません。そして、30センチも掘ると岩盤です、農耕が出来る状況ではないのです。従い、古来、人々は海岸に住み漁労中心の生活でした。

 海上の位置関係より、さぞや古来、中国・朝鮮半島・日本との交易で貿易港として栄えたと考えられそうですが、それが駄目だった。その理由は、島には川が殆ど無く従い、木造船が停泊できる良港に恵まれないからです。秋から冬にかけ、北西風が強く吹き付け島の北側(朝鮮半島方面)では強い風を受け、良港が得られない。島の南の方が風の影響も無く、温暖であり中国・日本との貿易港としては立地条件が良かった。しかし、13世紀以降は朝鮮半島の国に属した為に北側の僅かな港をメインの港とせざるを得なかった。

 島の中央には韓国最高峰の漢拏山(はるらさん)1950メータが聳えています。廻りを対馬暖流が流れているので、温暖である。特に漢拏山の南斜面では温暖でありミカンが特産品となっている。植生は温帯に属し、日本列島と同じであり朝鮮半島とは異なる。習俗も倭人の習俗を思わせる。特に海女は1970年でも14000人も存在していた。

 『耽羅の謎(済州島)』

 1.建国神話と倭国

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 ・朝鮮の『高麗史』、『世宗実録』によれば、高さん、良(梁)さん、夫さんという三名の神人が漢拏山の北麓の穴からこの世に出現した。(現在、三姓穴として伝説遺跡保存されている)ある時、東の国の碧浪国(日本と考えられている)からの使者が渡来し、三名の姫と馬と五穀をもたらし、王妃となり、国の建設を助けた。

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 ・徐福伝説の瀛州(ヨンジュ)が耽羅であるという伝説もあり、北部の東門市場の近くを流れる川には徐福が上陸時に石に記録したという『朝天石』が残されている。徐福は漢拏山で仙薬を探したが見つからず、此の地を去ったという。日本へ向かった。

 ・嫁さんや農耕を日本が伝えたという事は、済州島の女性の仕事は、昔は海女さんであり、同時に海岸で畑を耕していた事と関係があるのかも知れない。(男は今でも働かない事で有名だそうだ)

 

 2. 『ラ国』海洋民族

 ・司馬さんの『耽羅紀行』によれば、国の事を『ラ』と呼ぶ海洋民族が朝鮮半島南部、から日本列島にかけて存在していたと仮説を述べている。クダラ(百済)、カラ(加羅)、タンラ(耽羅)、シルラ(新羅)、マツラ(末盧 松浦)である。ひょっとすると、山の名前である漢拏山(ハルラ)も国の名前であったかも知れない。

 ・彼らの共通習俗は海に潜り魚や貝を捕獲し、入墨(鯨面分身)をしている。魏志倭人伝で加羅(狗邪韓国)や末盧の人々の習俗(倭人)の記録として残している。(基本的には長江下流域の海岸から東シナ海沿岸の海洋民族の習俗と中国人は考えていたようです。

 3. 常世の国 耽羅

 ・新羅(シルラ)の皇子のアメノヒボコの嫁さんは日本人でした、彼女が逃げて本国に帰還してしまい、女房を追いかけて難波近くまで来るが拒絶され、仕方なく若狭・近江をさまよい但馬の国で最後は永住したという伝説。そして、その子孫である田道間守(タジマモリ)が垂仁天皇の為に常世の国である耽羅へ非時香菓(ときじくのかぐのみ)を求める旅にでた。帰国すると、既に天皇は身罷っていた。要するにミカンを探しに耽羅にでかけた。

 ・どうやら、耽羅は不老不死の国、橘(タチバナ)の実がなる国であるという考えが当時の日本には存在していたようだ。橘の葉は常に艶やかに光り、その実は不老不死の薬と考えていたようです。その後の日本では平安時代でも貴族は庭に橘の木を植えたと言う。有名な平安京の左近の桜・右近の橘のように、橘は不老不死の象徴でした。最初に臣籍降下した葛城王が貰った姓は橘でしたね。

 4.耽羅の三多と三無

 

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・三多(さんた)とは、済州島では風が常に強く吹き、火山島の為に石ころだらけで、見渡せば女ばかりと言う。済州島では女は海岸で海女として海に潜り、魚介を捕獲し、海岸の畑を耕し、水汲みをする。男は見かけない、昼寝して酒でも飲んでいるんでしょうか。

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 ・三無(さんむ)とは、済州島では泥棒がいない、乞食がいない、門が無い。門の代わりに石柱に縦に三個の穴を明けたものを両側に建て、穴の間に三本の横木を通すチョンジュモクというものがある。横木はチョンナンと呼ばれ、三本とも外れていれば、家族全員が家に居るのでどうぞ来て下さいという表示。1本の横木がかかっていると、子供だけが家に居る、2本かかっていると夕方には戻る、3本の横木がかかっていると今日は一日不在だし、しばらく留守という表示だ。

 ・確か沖縄でも同じような風習が存在したと思います。南の島の文化ではないでしょうか。

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