邪馬台国への旅(続篇) その1 帯方郡より狗邪韓国へ
2005年の12月の記事で神保町の古本屋で見つけた『NHK取材班 邪馬台国への旅』を読んだ感想を記事にした。
今回は、森浩一さんの『倭人伝を読みなおす』(ちくま新書 2010年8月10日)を読みながら、再度、帯方郡から邪馬台国への旅を辿る旅をしてみたい。森浩一御大は既に80歳を越えられているのに元気でおられる姿を私は先月、伊勢国での講演会で拝顔させて貰った。まるで、青年のような考古学への夢をお持ちの姿に感動している。
先ず、『倭伝』、『倭国伝』でなく、何故『倭人伝』と魏志では書かれたのかを理解しておく必要があると森さんは主張されている。私の理解は卑弥呼を盟主とする邪馬台国連合の国々が列島には存在したが、属さない倭人の国々が存在し、早く統一国家が生まれて欲しいと望んでいたのが魏の立場ではなかったかという背景が存在したと思います。
森さんの大胆な仮説はあとで、詳しくご紹介しますが帯方郡から派遣された張政により卑弥呼は死を賜り、北の女王国とその南にある狗奴国との対立を解消させ一つの倭国成立に長く倭国に滞在し貢献したという。
さて、帯方郡の位置ですが、私は今まで現在のソウル近辺に存在したと考えていましたが、森さんは以下のように述べておられます。以下引用文です。
『楽浪郡は北朝鮮の首都のある平壌市の南部、帯方郡の郡治はそこから南方約70キロの黄海道鳳山郡智塔里である。・・・・・・・ 楽浪郡の郡治は大同江の左岸、帯方郡の郡治は大同江から分かれて南流した載寧江の支流の瑞興江の右岸にあって、ともに船の入れる地形である。』
衛星写真で概略の場所を示しましたが、北朝鮮の領域にあるのですね。帯方郡の遣使は大同江の河口から朝鮮半島西岸を南下し、半島の南端の狗邪韓国(現在の金海)まで船で沿岸を航行した。7千里と倭人伝では記録されている。
朝鮮半島西岸の海は干満の差が激しく、満潮時と干潮時では11メータも差があるとNHK取材班は述べています。従い、航行は干潮時に岸から離岸し沖に南に向かい航行し、満潮時に岸に向かい航行するという、いわば、ノコギリの歯のような航路で南下したと想定されている。沿岸航法での危険は座礁である。
例えば、最近の事件としては道徳島沖の沈没船の引き上げである、韓国では「新安沖海底の沈没船」と呼ばれているが、この船は鎌倉時代に京都の東福寺が伽藍の建立の資金を得る為に商人の協力を得て派遣した貿易船であった事が判明した。その貿易船が荷物を満載して帰国途中に座礁し、沈没したのであり、水中考古学の成果である。
魏志倭人伝によれば、帯方郡を船で航海を始め、先ずは朝鮮半島南部の狗邪韓国に到着する。狗邪韓国とは現在の金海市であるが、4世紀、5世紀には加羅(伽耶・駕洛)であり釜山市の西にある。当時の迎賓館は鳳凰台に存在したと想定されている。
当時の遺跡としては、金海(池内洞)遺跡、金海(会ケン洞)遺跡、金海(良洞里)遺跡が有名だという。
森さんの話では金海貝塚で北部九州で作られた甕棺が出土しているという。狗邪韓国の範囲では日本列島で作られたとみられる土器や青銅器が出土するそうだ。勒島では島全体から韓国の土器に混じり弥生土器が出土するという。
魏志韓伝での弁辰狗邪国が狗邪韓国と考えられているが、弁辰12国の中で倭と界(さかい)を接すると記録されている瀆盧国(とくろこく)とは、巨済島・欲知島・巨文島のことではないかと森さんは推測されている。
特に豆粒のような小さな巨文島は航海上・軍事上重要な島だそうで、倭島とも呼ばれており15世紀の時代にも対馬島主の宗貞盛が李氏朝鮮との間で条約を結び、対馬の海人が漁業が出来るようにしていたそうだ。巨文島からは漢代の五銖銭が74枚も出土し、九州や沖縄から点々と出土する銅銭で、沖縄に産する宝(子安)貝を中国に運ぶうえで重要な拠点として巨文島が存在したという。
欲知島も巨済島と巨文島の中間にあり、瀆盧国に属していたと考えられる。森さんの話では天智天皇の白村江の戦争のあと唐は軍事圧力を倭国にかける為に2千名の兵士を玄界灘に送ろうとしたが、駐屯していたのはこの欲知島であろうと推測されている。
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