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纏向遺跡と記紀での記録

 昨年の纏向遺跡に於ける大型建物址発掘に関して卑弥呼の宮殿ではないか、邪馬台国は纏向に存在したという論調がメデイアを中心に喧伝されている。しかし、邪馬台国は中国の資料である魏志倭人伝の話であり、日本側の資料では邪馬台国も卑弥呼も記録には登場していない。

 この大きなギャップが謎の深さを深めている。考古学的には近年の歴博に於ける箸墓古墳周濠の土器や石塚古墳の出土土器付着の遺物に対する最新のC14放射性炭素年代測定法により従来の3世紀末から4世紀の常識が3世紀中葉の卑弥呼崩御の時代に接近し、にわかに纏向遺跡は3世紀前半から中葉の時期であるという議論が沸騰した。

 中国側の資料と最新の科学的な纏向遺跡の遺物の年代測定から、中国側の資料である邪馬台国とりわけ卑弥呼の死亡年代と箸墓古墳の遺物の物理年代が合致する事から纏向遺跡が邪馬台国であるという議論が大きくなったのである。

 問題は、日本側の資料である記紀では一切、卑弥呼は登場しないし邪馬台国も登場しない。私が尊敬する考古学者の森浩一先生は邪馬台国九州説の学者さんである。彼の『倭人伝を読みなおす』(ちくま新書)を読ませて頂いた。私は邪馬台国奈良盆地東南部位置説ですが、森さんが言われる記紀と纏向遺跡との関連が私も気になっている。

 記紀によれば、第11代天皇、垂仁天皇の宮は纏向珠城宮であり、第12代天皇、景行天皇の纏向日代宮(ひしろのみや)であり、第10代天皇、崇神天皇の磯城瑞垣宮である。纏向遺跡で大型建物址が発掘されれば、記紀の記述を大事にする人ならば、これ等の天皇の宮ではないかと推測するのは自然な事である。

 私も昨年の纏向遺跡の大型建物址の現地を観て川に挟まれた大田微高地の状況から崇神天皇の磯城瑞垣宮ではないかという考えが浮かんだ。状況証拠としては、そのように思った。森浩一さんは、邪馬台国は古来、日本で「ヤマタイコク」と発音しているが、意外と彼の説は「ヤマト」と発音して不思議は無いと言われている。勿論、九州にも山門(ヤマト)と呼ばれる場所はあり、九州説を否定する論ではない。

 記紀を執筆した人は、勿論、魏志倭人伝の存在とその内容は知っていた筈である。しかし、卑弥呼女王についての記録を残さなかった。しかし、記紀が記録する、ヤマトトトビモモソヒメの姿は明らかに巫女の姿である。記紀では神功皇后の姿を卑弥呼に想定してるような節があるが、時代が異なると思う。

 記紀が記録されたのは天武天皇以降であり、その頃の政治体制と古代の政治体制が全く異なり記紀を記録する人が昔の巫女さんと、政治を掌る男王との両輪体制を理解出来なかったからではないだろうか。初期の前方後円墳、例えばオオヤマト古墳群では前方部と後円部の両方に竪穴石室が存在する。これは、巫女王と政治王の二人が両輪で政治をしていた可能性を示唆するのではないだろうか。

 天武朝から奈良朝の時代にはもはや、巫女王は存在しない時代であった可能性がある。古墳の副葬品を観ると、三輪王朝時代は鏡が中心であるが、応神天皇の時代からは急に馬具や戦闘用の副葬品中心になり、明らかに政治内容が変化したと考えられる。

 弥生時代末頃までは圧倒的に北九州に考古遺物は存在し、日本列島の中心先進国は北九州に存在したのは事実である。しかし、後漢の衰退と滅亡は朝鮮半島にも混乱を招き、漢王朝の後ろ盾があった北九州の奴国や伊都国の権威は崩壊したのかも知れない。そして、倭国は朝鮮半島を含めて戦乱の時代が到来したと思う。

 遼東半島から朝鮮半島では公孫氏が台頭し日本列島でも北九州の国ではない瀬戸内海連合の国々が台頭した可能性がある。しかし、何故、考古遺物が示す北九州から奈良盆地に圧倒的な考古遺物が増えたのか、その理由は未だ解明されていない。

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