但馬国紀行 円山川河口・日和山海岸・余部(あまるべ)鉄橋
今回の紀行は但馬国です、丹後国と接していますが大昔は丹波国に含まれていました。昔より但馬の国は円山川に沿って栄えた場所と思います。大河である円山川は日本海に注いでいますので、日本海航路から多くの人々と舶来の物資が運び込まれ栄えた港町と思われます。
日和山(ひよりやま)海岸という名前そのものが、海運で栄えた町である事を証明しているようですね。円山川河口は5世紀の頃は潟湖であったそうで、黄沼前海(きぬさきのうみ)と呼ばれ、湿地帯でもあり円山川の氾濫で人々は住める状況ではなかったそうです。仁徳天皇さんの時代に城崎郡司である海部直命(あまべのあたいのみこと)の息子である西刀宿禰(せとのすくね)が円山川の河口の土木工事により瀬戸を開き川の水を日本海に放流できるようにしたそうです。
仁徳天皇の時代には大きな大土木工事が河内でも行われ、上町大地に運河を掘削し河内湖の水を大阪湾に誘導し河内湖を干拓したと記録が残っていますね。応神天皇から仁徳天皇の王朝は河内王朝とも呼ばれるが、渡来系の氏族を使い土木工事の技術を持つ渡来人を利用したと考えられています。
日和山海岸にある式内社の西刀(せと)神社は大土木工事で功績をあげた西刀宿禰を祭神としており、又、余部鉄橋のある余部(あまるべ)という名前も海部直命の「アマベ」が語源ではないかと考えています。日本各地にヤマト王権は海部(あまべ)を海運の拠点に作りました、そんな歴史を踏まえていると思います。
城崎温泉の名前の「キノサキ」も黄沼前海(きぬさきのうみ)から転化した名前ではないかと推測します。
日和山海岸近くの日本海の打ち寄せる波は凄いです、冬の日本海は荒れています。
荒波の人生行路を乗りきった爺さん達がこれからの余生について語っているんでしょうか。気楽そうです。
日和山海岸の波しぶきです。
この海岸には浦嶋太郎伝説の竜宮城が観光客目当てかしらないが、海岸の岩の上に作ってありました。最初の衛星写真の図で示した丹後国の浦嶋神社や籠神社が瑞之江浦嶋子の伝説の地としては有名です。
これが先ほど説明した、西刀(せと)神社です。但馬国には131社も神社があり延喜式でいう格が最高クラスが18社もあります。7世紀以前は丹波の国に属していましたので、丹波71社、丹後65社を加えると267社となり大和の286社に迫る神社の数となり、如何にヤマト王権は但馬国を含む丹波地方を重要視したかが判ります。ちなみに、伊勢国は253社、出雲国は187社、近江国は155社、越前国は126社だそうです。
先日、新橋で後輩の『ふろく』君と飲んでいたら、彼は鉄ちゃんですから、神戸に住む御母堂を連れてこの余部鉄橋の下の民宿にお連れしたと話を聴いた所でした。
今はコンクリートになりましたが、明治40年代に建設された鉄橋の一部は遺跡として残されています。貴重な文化遺産ではないでしょうか。
鉄橋の下にはこんな激しい日本海の波が打ち寄せていました。
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