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越塚御門古墳に思う

 承前 牽牛子塚古墳で新たな発見

 今日の越塚御門古墳の現地説明会には3千人の一般市民が見学に来たという報道がNHKのニュース番組で報道されていた。インタビューされた紳士は手に日本書紀を持っていると述べていました。現在の極東の軍事的な緊張と、この天智天皇の時代と何処か似ている所が共感を得ているのでしょうか。

 蘇我氏が圧倒的な政治を支配していた時代から、入鹿を暗殺し新しい日本を建設しようとした中大兄皇子、そしてその母である皇極天皇(践祚して斉明天皇)の激動期の時代のメモリアルが牽牛子塚古墳であり、越塚御門古墳であるとすると浪漫があります。

 朝鮮半島の情勢は緊迫し、新羅が唐と連合し日本と親密な関係にあった百済を滅ぼした。飛鳥の朝廷では議論されたでしょうが、当時、飛鳥に人質として滞在していた百済の皇子である豊璋をたて、百済再建の為に援軍をつけ百済に送りこんだ。斉明天皇の晩年である。彼女は築紫まで、息子の中大兄皇子とともにでかけ朝倉宮に行幸した。

 しかし、彼女はその宮で突然に身罷るのです。暗殺された可能性もあるでしょうね。当時は朝鮮半島から高句麗・新羅・百済のスパイや情報機関が多数渡来していたと思います。戦時体制ですから、世の中は混乱していたと思います。

 先月、酒船石遺跡の下のスッポンの形をした石漕を眺めていて、斉明天皇が石漕に入り水の祭祀をされている姿を想像していました。彼女も、巫女的な面影が多い女帝でした。あたかも、卑弥呼の系統を継いでいるというイメージがあります。しかし、松本清張さんはユニークな意見で、彼女は拝火教(ゾロアスター教)の信者であったという説でした。

 ともあれ、斉明さんは娘の間人皇女を孝徳天皇の皇后にするが、又もや息子の中大兄皇子により失意の崩御となり不幸な娘を抱える事になりました。中大兄皇子は孝徳天皇を一人、難波宮に残し百官を引き連れ、又、間人皇后も引き連れて飛鳥に戻りました。

 一説では孝徳天皇崩御のあと間人皇女は女帝になったという説もあります。悲劇物語を綴るならば、一説では蘇我入鹿は斉明さんとただならぬ関係にあったという説もあり、息子の中大兄皇子に殺されたという解釈もあるようです。

 であるとすれば、母、娘ともに大事な男性を息子(間人皇女からすでは兄弟)に殺された母娘なんです。その二人が同じ墓に並んで埋葬された牽牛子塚古墳は深い歴史的な意味が有りますね。どんな思いで、二人は今も一緒に眠っているのか、考えるだけで胸が痛みます。そんな思いをしながら、先月、古墳の廻りを歩いていました。

 そして、もう一人悲劇の女性がいたのです。中大兄皇子の娘の大田皇女です。彼女は天武天皇の妃となりますが、大津皇子と大伯皇女を産んで子供達が7歳、5歳の頃に二十歳代で死んでしまいます。そして、息子娘は万葉集でも有名な悲劇の歴史を辿るのです。

 天智天皇が大津京に遷都する時に大田皇女の墓も自分のお母さん、姉さんが眠る牽牛子塚古墳のすぐそばに、葬ったと記録されている。考えてみると、中大兄皇子により悲劇の人生を送った親族3名の女性が眠るお墓となります。

 本当の歴史はどうであったか、不明です。しかし、上記のように考えて牽牛子塚古墳と越塚御門古墳を眺めると、浪漫が溢れる特別な場所と感じます。

 さて、今回の明日香村の発表では40歳の明日香村の人と、関西大学の3年生の20歳の若者が発表していました。考古学の世界も大いに若返る姿に感動を覚えます。勿論、明日香では関西大学の網干善教御大がおられるので、若者が大活躍できるのかも知れない。これからの、明日香の考古学を切り開いて貰いたい。

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