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2010年 大晦日 御挨拶

 遂に今日は大晦日、今年も沢山の人々のお世話になりました。改めて御礼申し上げます。

 海外旅行で御一緒させて頂き、楽しい旅をさせて頂いた人々に感謝します。その後、御一緒させて頂いた皆さまの今年の旅は如何なもんでしたでしょうか。来年も、何処かで御一緒出来るかも知れませんね。

 爺さん4名の山歩きと温泉の旅も今年は4回も開催されました。古河さん、小島さん、大岩さん、お世話になりました。八ヶ岳の天狗岳が一番厳しい山登りでしたね。筑波山、袋田滝、金時山と全て快晴に恵まれ、これまで一度も雨に遭遇していません、実にラッキーでした。会の名前も『G4』(爺さん4人の意味でしょうか)と命名されました。

 学生時代のワンゲルの仲間と会う機会が二度もありました。200名のOB/OGの方々と数十年振りにお会い出来ました。これが最後だろうな~と思いながらファイヤーストームを囲んでいました。又、同期の八十川さん、道下さん、吾朗ちゃんと城崎で松葉カニを食べたのも印象が深いです。八十川さんには大変お世話になりました、吾朗ちゃんは運転有難う御座いました。

 三重大学の山中先生の『壬申の乱ウオーク』にも参加させて貰いました。名古屋まで夜行バスに乗り頑張って参加しました。天武天皇と伊勢神宮の関係が少し詳しく判りました。そして、真剣に持統天皇が信濃に遷都を考えておられた事も初めて知りました。森浩一先生の元気なお姿も拝見出来て嬉しかったです。

 ひょっとすると、もう少し持統天皇が御長命であったなら、藤原京は信濃の国に建設され、日本の歴史はその後違っていたかも知れません。歴史を調べるとまだまだ、面白い事が沢山存在しているのですね。

 メデイア関連では、niftyの関係者の方々にもお世話になりました、雑誌『サライ』の関係者の方々にもお世話になりました、飛鳥Ⅱでのイベントや銀座ベルギービールでもお世話になり、美味しいビールを沢山、飲ませて貰いました。

 赤とんぼの皆さまとも春・夏・秋と白馬村の山小屋『ちんぐるま』でお世話になりました。高齢化が進む赤とんぼですが、未だ皆さんお元気なのが、何よりと考えています。来年の冬合宿は2月下旬ですね、再会を楽しみにしています。

 ともかく、元気で1年間過ごせた事に感謝したいと思います。来年も皆さまに良い年が来るようにお祈り申し上げます。卯年ですね、飛躍の年である事をお祈り申し上げます。

 

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正月準備で多忙の主夫

 そろそろ今年も終わりですね。ブロッグをやる暇も無いのが皆さんでしょうね。

 今日はそろそろ仕込みという事で、朝から八百屋さんやスーパーを巡る。黒豆は今年は初めて新しい安物の黒豆にした。帯広産の光黒大豆を使用してやってみます。豆200グラムに対して先ず、砂糖200グラム、塩1/2匙、醤油1匙で汁を作る。レシピによれば、沸騰したら火を止め、60度まで冷ます。水洗いした黒豆をホウロウ鍋の汁に投入し、サランラップを汁の表面にかけ5時間寝かす。

 現在、寝かせている最中です。冷凍庫から北海道の娘夫婦が送ってくれた、タラバガニ(毛蟹は既に食べました)の解凍を始める。数の子も匙1/2の塩を入れたボールに水を入れ塩抜きを始めた、4時間程度はかかるでしょう。干しシイタケも水で戻すのでボールに水を張り投入。4時間から5時間程度待ちましょう。

 と言う訳で、午後3時頃から、第二弾の正月料理の準備開始となります。今から、大根と人参のナマスを作ります。昨日、既に田作りは完成させている。

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2010年 思い出の旅(5) 国内編 三輪山周辺を歩く

 承前 2010年 思い出の旅(4) 海外編 中欧4カ国・韓国 百済大典紀行

 『笠縫邑を歩く 多神社・秦庄・笠縫神社・秦楽寺』

 多神社は奈良盆地南部のど真中に位置し、三輪山と二上山と春分・秋分の日の太陽の道との関係でランドマークの位置に存在する。この神社から三輪山から太陽が登り、二上山に沈むのを眺める事が出来る。3世紀~4世紀の奈良盆地南部の稲作と青銅器製作の歴史を考えると、一番重要な場所である。

 笠縫という場所は、『書紀』で崇神天皇の時代に疫病が流行したときに、宮中から追い出された天照大神をこの笠縫に移し娘の豊鍬入姫命に祭祀をさせた場所と考えられ、最終的には伊勢の伊勢神宮に天照大神は移られた。

 ともあれ、多(オオ、オウ)と言うのが古代史では重要だと思っています。太安万侶のオウであり、出雲の意宇です。門脇禎二さんの『出雲の古代史』によれば、出雲は西のフルネの国と東のオウの国が存在し、5世紀からオウ宿禰は出雲国造であったという。

 秦氏は本拠地が宇佐であるが、早くに出雲と吉備に進出したと考えられる。出雲の「しろうさぎ」の伝承も「斯盧 宇佐 来」と考えると、新羅の国の出身の宇佐(秦氏の本拠地であり秦氏そのもの)が出雲に進出したという伝承と捉える考えがあります。伝承のワニは王仁(和邇)氏を示していると考えられ、秦氏とのトラブルの伝承とする。

 参考 JoBlog ワニ氏と古代ヤマト王権

 鏡作神社が数カ所存在する、鏡は銅鐸・広切先銅矛という祭器が消滅したあと威信財として国内で製造が始まった。邪馬台国時代は中国の威信財の鏡を輸入していたが、ヤマト王権発祥と切っても切れない重要な青銅器である。その鏡を作る工房がこの場所に存在する事の重要性は政治の中枢の場所(今で言う造幣局)であったと考える。

  三輪山周辺を歩く 目次編

  秦氏に関するメモ 目次編

 

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秦氏に関するメモ 目次編

 秦氏は古代の日本の歴史を考える上で、最大の豪族グループとして考える必要があります。彼らの祖の渡来は応神天皇の時代からヤマト王権との関わりが生まれたと考えられているが、実は、もっと古い時代から宇佐を本拠地とし、出雲、丹波、吉備地方で地盤を築いていたと想定されます。

 秦氏に関するメモ その1 『日本にあった朝鮮王国』

 秦氏に関するメモ その2 『香春岳と天香山』

 秦氏に関するメモ その3 『香春神社』

 秦氏に関するメモ その4 『ヤハタ(八幡神)の神』

 秦氏に関するメモ その5 『八幡神は秦王国の神』

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2010年 思い出の旅(4) 海外編 中欧4カ国・韓国 百済大典紀行

 承前 2010年 思い出の旅(3) 海外編(暁の寺、アユタヤ・峨眉山、九寨溝、黄龍紀行)

 『中欧4カ国紀行』

 ベルリンの壁崩壊以前には中欧という言葉は存在しなかった。西か東であり、且つ、政治体制の区別でもあった。オーストリアはハプスブルク家が殆どのヨーロッパを支配していた時代、即ち第一次世界大戦前であるが、欧州の中心の都であった。特に、女帝マリアテレジアの時代が最も文化・文明の華が開いた時代であった。

 音楽とりわけ、クラシック音楽が好きな人にはウイーンは特別な場所ではないでしょうか。その次に日本人に人気があるのは、『プラハの春』で有名なモルダウ川の流れるチェコのプラハではないでしょうか。私が子供の頃はチェコ・スロバキアと国名は呼ばれていました。多くの体操選手が五輪で活躍した記憶があるのではないでしょうか。

 又、プラハはスメタナの交響詩『我が祖国』の6つの交響詩が含まれているが、その中で、モルダウ(ヴルタヴァ)は中学・高校の音楽の教科書にでるくらい有名ですね。

 スロバキアの首都、ブラチスバラを巡り、ハンガリーのブダペストへ。欧州では珍しく我々日本人と同じモンゴル系の人種であり、蒙古斑点がある人種の国です。ブダ地区とペスト地区を分断するように流れるドナウ川。船から眺める夜景は格別です、どうして、古来人間が都とする所には大きな川が流れているんでしょうね。

 パリのセーヌ河、ロンドンのテームズ川、ニューヨークのハドソン川、京都の鴨川、浪速の淀川、ハノイの紅河、長安の渭水、アユタヤのチャオプラヤー川、カイロのナイル川、数え切れない。

 東ヨーロッパの雰囲気が未だ少し、残っているが是非、落ち着いた雰囲気が好きな人は訪れては如何でしょうか。

 中欧4カ国紀行 目次編

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『坂の上の雲』 関連記事 目次編

 司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』に関する記事の目次をまとめました。

 ・2004年5月4日記事 司馬遼太郎 『坂の上の雲』

 ・2004年11月20日記事 敵前回頭 日本海

 ・2004年11月23日記事 日本海海戦 第二戦隊動かず

 ・2008年3月22日記事  今何故 『坂の上の雲』か

 ・2009年12月1日記事 『坂の上の雲』 第一回 少年の国

 ・2009年12月7日記事 『坂の上の雲』 第二回 青雲

 ・2009年12月14日記事 『坂の上の雲』 第三回 国家鳴動

 ・2009年12月21日記事 『坂の上の雲』 第四回 日清開戦

 ・2010年12月28日記事 『坂の上の雲』 感想

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NHKドラマ 『坂の上の雲』 感想 

 私の大好きな司馬遼太郎が絶対に映像化はさせないと、生前言いきっていた作品が、奥さんの了解のもとにNHKは映像化に踏み切った。NHKの責任及び、生き延びた関係者の、責任は重大である。

 司馬さんが懸念したのは、映像化により戦争賛美の作品と誤解されるのではないかと、その心配でありました。司馬さんが描きたかったのは、明治の人々の、絵図面の無い明治維新後の人々の必死に生きる、『私ごと』のない、日本を生存させる為に、自分は、何が出来るか、そんな、必死な多くの人々のサンプルを撰び、明治の時代の人々の精神を描きたかっただけなんだと考えています。

 世界は過酷でした、帝国主義が蔓延し、自国の利益の為にのみ動くのが正義であった時代です。アジアは欧州の帝国主義の餌食となり、植民化が進んでいた。今の中国の覇権主義をみていると、彼らが近世に受けた欧州への恨みが、経済力を背景に再度、明治時代の世界を繰り返すような、残念な気持ちがあります。

 司馬さんは、松山の少なくとも江戸時代には武士階級としてプライドのあった、三人を撰び、フランスの革命とは異なる知的、プライドある階層が国家の行く末を考える若者に焦点をあてた。これが、ロシア革命やフランス革命と決定的に異なる日本の歴史でありました。

 NHKでは時を同じくして、浅田次郎の『蒼穹の昴』のドラマを放映している。『坂の上の雲』とこの作品は、時を同じくした時代を、日本と中国の両面から描こうとしている。私は、NHKは大きな課題を中国と日本の国民に、近世史を考える石つぶてを投げているような気がしています。

 日本史を考えれば、明治の時代は本当に過酷な生活を一般庶民は強制された厳しい時代でした。江戸時代の方がもっと一般庶民経済は豊だったと思います。しかし、列強の帝国主義はアジアの豊かな平安を許さなかった。戦うしか道は無かったのが、現実だったと思う、そこは司馬さんの歴史観と私は同じだ。

 今、中国の一党独裁の覇権主義とヤクザのようなロシアの覇権主義が平和ボケした日本列島に迫っている。一番被害を受けているのは明治時代と同じで、朝鮮半島である。これが明治時代ならば、日本は朝鮮半島に対して平和を得る為の軍事行動を起こす所であるが、第二次世界大戦での韓国の国民感情を考えれば、日本は行動出来ない。

 アメリカは中東の後始末で動けない、そんな政治情勢から中国もロシアもやりたい放題である。日本という国はアメリカが存在しなければ、屁のような存在であるというのが、中国、ロシアの本音ではないだろうか。

 核も持たない、平和ボケした日本など、世界は相手にしていないのが現実ではないだろうか。アメリカの傘の下で、経済だけ世界第二位になって奢っていたのは、我々日本人だけの考えでは無かったのか。井の中の蛙だっただけの話だ。

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2010年 思い出の旅(3) 海外編(暁の寺、アユタヤ・峨眉山、九寨溝、黄龍紀行)

 承前 2010年 思い出の旅(2) 海外編(中国 雲南・西安・北京紀行)

 タイ紀行 『暁の寺・アユタヤ』

 タイは初めて訪れる国です。昔はシャム王国の名前で日本人には馴染のある国でした。特に日本人に馴染は、戦国時代が終わり国内では出世の夢が失われた新天地を求めて、アユタヤに渡海した山田長政が活躍した事で有名です。

 私は、数年前にハノイに在住していた時にカンボジアのアンコール・ワット、トム遺跡を訪問しましたが、その時にアユタヤとの戦争の歴史を学びました。そして、『ライ王のテラス』では三島由紀夫の戯曲を知り、バンコクの『暁の寺』の事も同時に学んだ。

 何時かは、タイという国を訪問してみたいと考えていましたが、今年、実現となりました。丁度、バンコクではデモの嵐が吹き荒れている時でしたが、無事に、紀行は楽しく終わりました。

 バンコク・アユタヤ紀行 目次編

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2010年 思い出の旅(2) 海外編(中国雲南・西安・北京紀行)

 承前 2010年 思い出の旅(1) 海外編(トルコ、エジプト編)

 『雲南紀行(昆明・羅平 菜の花畑紀行)』

 日本人のルーツを探る旅、雲南紀行でした。日本人の祖先の一つとして、長江中流域で稲作を始めた人々が候補の一つです。最新の考古学により、稲作の発祥はインド アッサム地方ではなく、長江中流域であるという考えが主流です。その稲作を始めた人々も、漢民族に追われ、雲南の山奥に押し込められた少数民族に我々、日本人の祖先のDNAを持つ人々が生き残っていると言うのです。

 もうひとつ雲南と日本を繋げる大事な事は、昆明にある滇池ほとりで栄えた滇王国です。江戸時代に偶然に志賀島の畑から掘りだされた『漢倭奴國王印』を巡る新発見です。この印は贋作ではないかと、古来、議論がありましたが、滇池近く石寨山遺跡で発掘された『滇王之印』金印の鈕も蛇鈕である事が判明し、前漢の武帝から与えられたものでした。

 日本の志賀島の金印は後漢の時代ですが、中華思想から考え倭国も滇王国も北方系の蛮族ではなく蛇を信仰する南方系の民族という事で蛇鈕が撰ばれており、志賀島の金印は本物であると結論されたのです。

 古代史に興味無い人でも、是非、菜の花の頃に雲南の羅平を訪問される事をお勧めします。素晴らしい広大な菜の花畑が広がる景色は圧巻です。そういえば、司馬遼太郎さんも菜の花が大好きな人でした。

 中国雲南紀行 目次編(昆明・羅平の菜の花畑)

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2010年 師走のフライト イン 千葉

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 2010年を締めくくる、赤とんぼ京浜地区のメンバーのフライトが千葉、八千代でありました。日曜日の朝5時に起床し、わこちゃんのベンツで朝7時前に現地到着。千葉の岩ちゃんも既に到着、現地の、よっちゃんも参加して5名によるフライトとなりました。

201012chibaflight_048  岩ちゃんは、2機で参加です。これは、30年程度昔のムサシノ模型の複葉機です。現在はOS15エンジンを搭載しています。今回はヘリコプターは持参せず、飛行機だけでの参加です。

 この飛行機、骨董ですが、今も現役で、岩ちゃんの古女房みたいなもんではないでしょうか。

201012chibaflight_115  岩ちゃんの、2機目の『カタナ』です。これも自作の飛行機でOS52のエンジンを搭載しています。修正です、『ズリン』であり、OS25FXエンジン搭載と修正を受けました。製作者本人の確認もとりました、申し訳ありません。

これは、数年前に製作されたと記憶していますが、これが最後の姿となりました。最後に、墜落大破となり焼却処分となりました。

事故は一瞬でしたね、返す返す、残念でした。

凄いスピードで飛ぶ飛行機で、まるで、パイロン機のような飛行機でしたね。

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 岩ちゃんが、小さな、ポンコツのムサシノ模型の複葉機を飛ばしています。

目の前をローパスで飛行しているのが、判りますね。外は氷点下-2.5度でしたが、だんだん気温は上昇しています。

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 かっちん、です。今回は自作の電動機『セダクション100』ではないかと思います。リチューム・ポリマー電池とブラシレスモータを搭載し、10分以上は易々とスタント飛行をする事が可能です。

久しぶりに、操縦するのに流石に上手です。赤とんぼでは、長く指導教官をして貰っています。

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201012chibaflight_102  見事なナイフエッジ飛行と直進飛行をする、かっちんのセダクションです。

小さな飛行機を操縦する方が実は難しいのですね。でかいのは、それに比べて簡単ではないでしょうか。

 マイフォト 2010年師走のフライト イン 千葉 写真集

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2010年の思い出の旅(1) 海外編(トルコ、エジプト編)

 今年も、色んな歴史溢れる場所を歩いた。今回は今年訪問した海外を振り返る。

 (1) 文明の十字路 トルコ

  ・3千キロに及ぶ長いトルコの旅は感動の連続でした。2010年の海外の旅では最高でした。旅行前に考えていたイメージとは全く異なる世界でした。旅行前は、飛んでイスタンブールのイメージはイスラムのゴチャゴチャした喧騒の世界を考えていた。

  ・実際に見たトルコは紺碧のエーゲ海が拡がるギリシャ・ローマ文明の世界であり、ローマから逃げたキリスト教徒のカッパドキアであり、最も戒律の厳しいイスラム教の聖地であるコンヤの風景と人々でした。

  ・今でも、トルコの人々が明治の頃に座礁したトルコ軍艦の乗組員を救ってくれた日本人を子供達に伝え、ロシア海軍を壊滅させた東郷を尊敬してくれている。世界でも、数少ない日本人を愛してくれている人々が住む国である。

  ・今回は、世界史を変えた、鉄文明を発祥させたヒッタイトの故郷を訪問出来ませんでした、次回には必ずヒッタイトの遺跡を訪問してみたい。しかし、あの石灰棚の美しい景色は世界一ではないだろうか。忘れる事が出来ない思い出満載のトルコ紀行でした。

  ・トルコ紀行 総目次編

   パムッカレ絶景の景色編

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韓国 安東・百済・ソウル紀行 その9 昌徳宮(世界遺産)

 承前 韓国 安東・百済・ソウル紀行 その8 百済大典

 ソウルにある世界遺産 景福宮の離宮であった昌徳宮を再訪しました。初めて訪問したのはソウルでワールドカップの開会式があった時に、会社の同僚であるリチャード君と一緒に訪問したのが初でした。この宮殿は梨本宮家から皇太子妃ととして嫁いだ、方子(まさこ)さんが暮らした、日本人にはゆかりの宮殿です。

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 韓国最古の門である敦化門です。1412年建造の立派な離宮の正門です。

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 韓国最古の橋である錦川橋です。石で出来た橋ですね。

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 正式な儀式が行われた仁政殿の朝廷です。仁政殿に向かい、右が文官、左が武官が整列して位の高い人から国王に近い場所に立ちます。朝鮮半島は中華の文化圏ですからね。

 マイフォト 韓国 安東・百済・ソウル紀行 昌徳宮写真集

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韓国 安東・百済・ソウル紀行 目次編

 韓国ではやっと百済の歴史が評価されるようになりました。今年から百済大典が開催されるというので、出かけました。そして、洛東江上流に位置する伝統ある両班(りゃんぱん)の故郷である安東(あんどん)も訪問しました。韓国の歴史を探る旅でした。

 韓国から無事帰国しました。

 韓国ではキムチがピンチ

 韓国 安東・百済・ソウル紀行 その1 両班(やんばん)

 韓国 安東・百済・ソウル紀行 その2 安東 河回村(1)

 韓国 安東・百済・ソウル紀行 その3 安東 河回村(2)

 韓国 安東・百済・ソウル紀行 その4 安東 河回別神クッ仮面劇

 韓国 安東・百済・ソウル紀行 その5 百済の歴史(1)

 韓国 安東・百済・ソウル紀行 その6 百済の歴史(2)

 韓国 安東・百済・ソウル紀行 その7 錦江(白馬江)・皐蘭寺

 韓国 安東・百済・ソウル紀行 その8 百済大典

韓国 安東・百済・ソウル紀行 その9 昌徳宮(世界遺産)

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中欧4カ国紀行 目次編

 中欧4カ国を巡る旅に出ました。

 オーストリアのウイーンに三泊、チェコのプラハに二泊、スロバキアの首都のブラチスラバには宿泊せずに、ハンガリーのブダペストで一泊の八日間の旅でした。

 中欧4カ国紀行から無事帰国しました

 中欧4カ国紀行 その1 チェスキークルムロフ訪問記(1)

 中欧4カ国紀行 その2 チェスキークルムロフ訪問記(2)

 中欧4カ国紀行 その3 世界遺産 プラハ城・聖ヴィート教会

 中欧4カ国紀行 その4 カレル橋

 中欧4カ国紀行 その5 旧市庁舎広場・天文時計

 中欧4カ国紀行 その6 プラハ モルダウ川クルーズ

 中欧4カ国紀行 その7 プラハ 国立博物館

 中欧4カ国紀行 その8 プラチスラバ(ソロバキア首都)

 中欧4カ国紀行 その9 ハンガリー ブダペスト ドナウ川夜景

 中欧4カ国紀行 その10 ハンガリー ブダペスト王宮の丘

 中欧4カ国紀行 その11 ハンガリー ブダペスト王宮の丘(2)

 中欧4カ国紀行 その12 ハンガリー 英雄広場・聖イシュトバーン大聖堂

 中欧4カ国紀行 その13 ウイーン シェーンブルン宮殿

  

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邪馬台国への旅(続篇) その9 投馬国・邪馬台国

 承前 邪馬台国への旅(続篇) その8 福永さんの話のつづき

 魏志倭人伝最大の謎が投馬国・邪馬台国への行程についての記述です。原文をそのまま読むと、不弥(彌)国の記述のあと『南至東馬国水行二十日官曰彌彌(みみ)副曰彌彌邦利(みみなり)可五萬餘戸南至耶馬壹国女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬・・・・・・可七萬餘戸』とあります。

 これは文字通り読むと、北九州の不弥国(森浩一さんは宇美川界隈と想定、宗像界隈とする説もあり)から南に進路を取ると邪馬台国は台湾あたりの遥か南方海上になります。江戸時代から明治、大正、昭和、平成と数百年の間、この解釈を巡り議論が続いている。

 『森浩一さんの解釈は概略以下の通りです。 邪馬台国九州説』

 倭人伝筆者、陳寿が最初に書いた原稿では不弥国の記述のあと、実は、上記の投馬国、邪馬台国の記述は存在せず、直ぐに、『自女王国以北其戸数道里可略・・・・・』と続いていたと解釈。台与が晋への遣使の際にもたらした新しい情報を陳寿が倭人伝をまとめる際に挿入したと解釈している。(投馬国から邪馬台国の記述部分)

 従い、投馬国・邪馬台国の記述の行程は帯方郡からの行程であると解釈し、帯方郡から船で航行し20日間で投馬国、そして投馬国から船で10日間、陸を1カ月間歩いた場所に邪馬台国が存在すると解釈する。

 所謂、邪馬台国九州説は投馬国・邪馬台国の行程の記述の出発点は帯方郡であると考えるのではないでしょうか。

 『邪馬台国を奈良盆地東南部と考える研究者の考え方』

 投馬国・邪馬台国への行程記述の南は陳寿の間違いであり、東と読めば良いという考えです。北九州の不弥国から東に船で20日間で投馬国(吉備と考える人か出雲と考える人が多いと思う)に至り、其処から船で10日間航行し上陸して1カ月を陸上を歩いて邪馬台国に至ると考える。

 これも強引な説であると、私は子供の頃から考えていました。無理やり奈良盆地に邪馬台国を持ってくる説だと考えていた。

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邪馬台国への旅(続篇) その8 福永さんの話のつづき

 承前 邪馬台国への旅(続篇) その7 土器編年と絶対年代

 前回の、福永伸哉さんの論文『考古学の新しい成果と邪馬台国論争』の続きです。

 (卑弥呼共立と考古資料の変化)

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 前回の記事で述べた、新しい年代観でみると卑弥呼共立の時期は考古学で言う庄内式土器の時代となり、その前の倭国混乱の時代、即ち2世紀の時代は弥生後期後半という事でした。

 弥生後期後半の時代は北部九州と畿内地域で青銅製祭器の発達が頂点を迎えていた。北部九州では長さ1メータ近くもある広形(森浩一さんは広キッサキと呼ぶ)銅矛が盛んに作られ、畿内地域では銅鐸が巨大化し高さ1.3メータにもなる。あたかも東西両陣営が独自祭器の巨大化を競ったように見える。対抗関係にあったのではないだろうか。

 一方、吉備地方では有力者の葬送用の祭器と考えられる特殊器台を発達させ、山陰地方では四隅突出型墳丘墓という独特の形をした首長墓を発達させていた。東海地方は畿内と同様の大型銅鐸を発達させていた。要は地域独自のシンボルをたてて政治的な結束がなされていた。

 しかし、突然にこれらのシンボルは消滅する、1990年代に発掘された北九州市の重留遺跡では広形銅矛が、徳島市の矢野遺跡では最終形式の銅鐸がそれぞれ、弥生後期の遺跡の中に埋められた状態で発掘された。青銅祭器の終焉の時期を推定出来る事例として重要であった。弥生終末期(庄内式土器)よりも前の段階でこれ等の地域シンボルは終焉を迎えていた。

 青銅祭器が2世紀末頃に突然に姿を消し、吉備の特殊器台も山陰の四隅突出型墳丘墓も衰退に向かうという事は列島に於いて広域の地域統合が生まれた事を物語る。

 

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読売新聞記事(2010/12/22朝刊) 牽牛子塚古墳の意義

 承前 越塚御門古墳に思う

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 本日、読売朝刊にて橿考研の今尾文昭(いまお ふみあき)さんが『牽牛子塚古墳の意義』という論文を掲載された。見出しは、「皇統示す斉明陵改葬か」、『続日本紀』の記述と整合、とあります。よく整理された論文なので、簡単に要旨だけを紹介します。

 『文献からの論拠』

 (1)日本書紀の記述

  天智6年条(667年)、天豊財重日足姫天皇(あまとよ たから いかし ひ たらし ひめの すめらみこと)=斉明と、間人皇女を小市岡上陵に合せ葬(かく)せり。是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の墓に葬す。

 (2)続日本紀の記述

  文武3年条(699年)に以下、天智天皇の陵と斉明天皇の陵の山陵造営記事がある。

《文武三年(六九九)十月甲午(壬午朔十三)》冬十月甲午。詔、赦天下有罪者。但十悪・強窃二盗、不在赦限。為欲営造越智。山科二山陵也。
《文武三年(六九九)十月辛丑(廿)》辛丑。遣浄広肆衣縫王。直大壱当麻真人国見。直広参土師宿禰根麻呂。直大肆田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。浄広肆大石王。直大弐粟田朝臣真人。直広参土師宿禰馬手。直広肆小治田朝臣当麻。判官四人。主典二人。大工二人於山科山陵。並分功修造焉。

  

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邪馬台国への旅(続篇) その7 土器編年と絶対年代

 考古学の世界では土器の形態により縄文時代から近世の時代までの相対編年が詳細に積み上げられて来た。出土した土器の地層の分析や形態比較によりきめ細かな相対年代が積み上げられて来た。その土器編年を絶対年代とリンクする所で、この数年の近畿地方での発掘成果や歴博での炭素14法での研究成果から教科書を書き換えるような議論が起こっている。この問題は、邪馬台国論争と密接な関係があるので、福永伸哉さん(阪大大学院教授)の意見を紹介します。

 この論文は、私が毎年参加している『三輪山セミナー』で有名な、大神神社が発行する『大美和』117号より引用します。

 『古い年代観』

 1980年代の半ば頃までの瀬戸内から近畿の研究者の間では、「卑弥呼共立」直前の「倭国乱」に対応する考古資料として、弥生時代中期後葉頃(土器編年相対年代)に顕著となる「高地性集落」が取り上げられていた。水田耕作に不向きな高地に何故、集落を作るのか、これは「逃げ城」であると考えられていた。

 又、その頃に石鏃が戦闘用に相応しい大型化が顕著となっていた。従い、倭人伝でいう2世紀後半の年代は、倭国乱の時代であり、弥生時代中期後葉であるという年代観が主流を占める事となった。

 従い、「卑弥呼共立」の年代は弥生中期末の事であり、次の弥生後期前半から邪馬台国時代の3世紀という年代観が通説となった。この弥生時代の年代観は、前方後円墳が西暦300年前後に出現すると考える当時の古墳時代研究者は考えた。

 弥生時代後期前半と言えば、畿内は巨大集落の多くが解体したり廃絶する社会の転換期にあたり、魏志倭人伝が述べる安定した邪馬台国が生まれる余地は無かった。これに反して、北部九州では前原市の井原鑓溝遺跡や、唐津市の桜馬場遺跡のように中国鏡や列島製青銅器を多数副葬する有力墓が邪馬台国に相応しいと考えられていた。

 『新しい年代観』

 しかし、この年代観はその後の発掘や研究の進展により大きく変動した。福永さんの意見を紹介します。彼は主な三つの成果を掲げている。

 (1) 「貨泉」の出土

 80年代になり、八尾市亀井遺跡や東大阪市巨摩廃寺遺跡などの弥生後期前半の遺跡から、中国の貨幣である「貨泉」が出土する例が増えた。「貨泉」形態の研究により、弥生後期前半の遺跡で見つかるものは、初期の貨幣である事が判明した。

 この成果により、弥用後期前半は従来考えられて来た3世紀ではなく、200年古い1世紀前半ではないかと考えられる事となった。

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箱根 金時山ハイキング

 承前 箱根の金時山から帰りました

 爺さん4人の山歩きと温泉の旅、今年の最後は金時山でした。小田原まで新幹線ででかけ、朝9時5分発、桃源台行きバスにて50分間、揺られ仙石駅下車。徒歩30分で公時神社到着、そこから金時山山頂を目指しました。

201012kintoki_005  今回は若い人々と一緒に山歩きとなりそうですね。坂田公時さんを祀る、公時神社です。ここから、1時間半程度で頂上に到着出来る筈です。

 最高の天気に恵まれました、爺さん4人組みの山歩き&温泉の旅はこれで8回目の開催ですが、全て快晴に恵まれています、奇跡的ですよね。

 今日の予定は、金時山から乙女峠に縦走し、再度、公時神社に戻るコースを選択しました。全行程4時間~5時間の行程です。

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 登山道は整備され、気持ちよく登れます。途中に「金時さんの手毬石」が有ります。

流石に、力持ちの坂田金時さんこんな巨大な岩で手毬をして遊んだんですね。彼は勿論、伝説の人ですが、源頼光が箱根に来た時に出会い、家の子となりその後四天王と呼ばれたという。

 京都の酒呑童子を退治する時には大活躍したそうです。しかし、源頼光は妖怪退治で有名ですから、四天王の生い立ちも謎の方が面白いですね。

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 こんなでかい割れた岩が登山道にあります。

中に人が入れますね、どうして割れたんでしょうか。岩の表面を見ると「さざれ石」のような感じで、小さな石が沢山集まって出来た岩のように見えます。

この辺りは、噴火により出来た山だと思うのですが、詳しくは判りません。

 古来、磐座(いわくら)として祀られるものは多くが割れた磐が多いのですが、理由は判りません。三輪山の御神体は山そのものですが、山を登ると沢山の磐座があるそうですが、殆どが割れているという話も聞いています。

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 山頂到着は2時間経過した、丁度、昼頃でした。日本晴れ、富士山が目の前に迫ります。

金時山は頂上に辿り着かないと、この景色は貰えません。それだけ、頂上に辿り着くと感激も湧きます。

今日は、日曜日ですから沢山のハイカーが押し寄せていました。多くの若い女性(山ガール)のハイカーにも遭遇しました。爺さん、婆さんだけが、山を登るようではないようです。

 マイフォト 箱根 金時山ハイキング 写真集

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箱根の金時山から帰りました

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 爺さん4人の温泉と山歩き、今年最後は箱根の金時山でした。新幹線小田原駅発、9時5分の桃源台行きバスに乗り約50分で仙石下車。公時神社まで30分歩き、そこから金時山を目指し、乙女峠までの縦走をして下山。仙石のハーベストクラブの温泉ホテルに宿泊し、忘年会をして今年を締めくくりました。

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 金時山山頂から眺める、霊峰富士。最高の眺めです。

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 今年最高の写真が撮影できました。乙女峠から下山した登山口に佇む地蔵さんです。何と夕日を少し受けて、優しいお顔でした、今年一番、感動しました。

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邪馬台国への旅(続篇) その6 不弥国

 承前 邪馬台国への旅(続篇) その5 奴国(なこく)

Photo  倭人伝では、「奴国より東行して、不弥国に至る百里、官を多模(たも)、副を卑奴母離(ひなもり)という。千余家あり」とある。

この地名を探ると、応神天皇が誕生した場所ではないかと推測される。『日本書紀』神功皇后摂政前紀に「誉田天皇築紫に生まれる。故(かれ)、時人、その産処を号(なづ)けて、宇瀰(うみ)という。」とあります。『古事記』では、宇美と記録されている。

 又、『築紫国風土記』逸文に、「息長足比売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)が新羅より凱旋して、芋○野(うみの)に至り太子(応神天皇)を生んだ。これに因んで芋○野という。」とあります。○は、さんずいに眉という漢字です。辞書にはありませんでした。

 倭人伝の不弥国は日本の古典から考えると、宇瀰、宇美、芋○、と記述され発音はウミではないかと考えられている。グーグルの衛星写真を添付しましたが、福岡平野には西から那珂川、御笠川、宇美川がほぼ平行に流れ博多湾に注いでいる。西の那珂川流域は奴国が栄えた流域であり、東の宇美川流域が不弥国が栄えた領域ではないかと想定される。

 不弥国は後に、糟屋屯倉(かすやのみやけ)と呼ばれた海の拠点を領域内に持つと考える。宇美町、志免町、粕屋町、新宮町が不弥国に領域だと森さんは推測されている。糟屋屯倉は継体天皇の時代に磐井の乱が起こり、磐井が敗戦し、息子の葛子がヤマト王権にさしだした屯倉が糟屋屯倉でしたね。そして、ヤマト王権は直接大陸と交易が出来る港を確保できたのでした。

 糟屋でもう一つ、有名な話が有ります。京都の妙心寺にある銅鐘は糟屋評(こおり)造(みやっこ)ツキメノ連(むらじ)広国が鋳た鐘だそうです。日本最古の有銘の銅鐘だそうです。製造は698年であり、鎌倉時代に京都の妙心寺に移設されたそうだ。妙心寺と言えば、奈良の『それから』さんのお父さんの菩提寺でしたね。

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中欧4カ国紀行 その24 ウイーンの銅像

 承前 中欧4カ国紀行 その23 ウイーン自然史博物館(3) 道楽皇帝

 ウイーンで見かけた銅像を紹介します。

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 ゲーテの銅像です。そういえば、数年前にゲーテ街道を辿る旅に出ました。その時が懐かしいです。フランス在住の娘の案内で息子、家内の4名で汽車の旅をしました。

 参考 ドイツ紀行(ゲーテ街道) 記事目次

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 ウイーン美術館&博物館の前庭に鎮座するマリア・テレジアの銅像です。この銅像群の中に6歳でマリア・テレジアやマリー・アントワネットの前で演奏した神童、モーツアルトの子供時代の像が含まれています。

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 もうお判りですね。ハプスブルク家が欧州の殆どを支配した時代の栄光です。

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邪馬台国への旅(続篇) その5 奴国(なこく)

 承前 邪馬台国への旅(続篇) その4 伊都国続編

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 さて、次は奴国(なこく)です。倭人伝では、『(伊都国から)東南奴国に至る百里。官を兕馬觚(じまこ)、副を卑奴母離(ひなもり)という。二万余戸あり。』と記録する。伊都国の側に突然に巨大な二万戸という人口を抱える国が登場です。それもその筈ですね、後漢の時代に金印を受けた有名な倭の国なのです。

 しかし、卑弥呼の時代の3世紀、魏の時代には卑弥呼の邪馬台国に属する国となっていました。漢の滅亡から公孫氏が楽浪郡、帯方郡を支配した激動期から魏が公孫氏を滅ぼした時期に奴国は倭を代表する地位を卑弥呼の邪馬台国に譲ったと考えられる。

 しかし、卑弥呼が景初3年(倭人伝では2年)に魏の都である洛陽に使者を送った時に、奴国はやはり活躍していたと考えられる。その使者は大夫の難升米(なしめ)と次使の都市牛利(としごり)である。二人は率善中郎将と率善校尉の位を魏から授かっている。大夫とは倭ではマエツキミと呼ばれる位であり、都市とは市(いち)を掌る役人である。

 難升米とは難(難、なだ、後の儺県、なだのあがた)と考えられ、奴(な)国の王か奴国の高級官僚と考えられる。升米が名前だったと考える。彼は、銀印を魏から授かるのである。(卑弥呼は金印)

 その後、難升米は卑弥呼が狗奴国と戦いが始まると、正始6年(245年)に魏の皇帝は難升米に黄幢(こうどう)を帯方郡を経由して送ってよこした。森さんの説では、この時に魏は卑弥呼を見限っていたと推論されている。難升米が奴国の人であるという説は、森博達氏の唱えられた説である。

 奴国は那珂川(なかがわ)流域と河口に栄えた国である。『日本書紀』宣化元年には那津に官家(みやけ)を作り、築紫・肥・豊の穀を那津の官家に集めている。那珂川右岸の比恵遺跡がその場所ではないかと考えれている。森博達氏は音韻学から、奴が儺となり、那と変化したと考えている。

 何れにせよ、奴国の人間が邪馬台国の卑弥呼の大使として、魏の洛陽にでかけ、その後、邪馬台国が狗奴国と戦う時にも重要な役目を果たしたと考えると、奴国には軍事的にも優れた面が存在したと考えられる。

 

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中欧4カ国紀行 その23 ウイーン自然史博物館(3) 道楽皇帝

 承前 中央4カ国紀行 その22 ウイーン自然史博物館(2) 古代の生き物

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20109wine_1469  この博物館はマリアテレジアの旦那、神聖ローマ皇帝フランツ1世の道楽のお陰で出来ました。写真は化石を商人から購入している皇帝の姿を描いています。欧州の殆ど全土を支配したハプスブルク家は文化の面でも世界の中心になろうと考えたのではないでしょうか。

 政治は、嫁さんのマリアテレジアがやっていたようですよ。嬉しそうに化石を買う少年のような旦那さん、親近感が湧きますね。

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 素晴らしい建物です。収蔵資料は3千万点にも及びます、世界一級の博物館ではないでしょうか。

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 鎌倉の大仏さんが飾られていました。シェーンブルン宮殿を見学して感じた事ですが、マリアテレジアを始め当時のオーストリアの貴族は東洋に憧れていたようです。

 日本の部屋と思われるような、日本の絵画や陶磁器や民芸品で飾られた部屋がありました。この鎌倉大仏は18世紀のものでしょうか。

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中央4カ国紀行 その22 ウイーン自然史博物館(2) 古代の生き物

 承前 中央4カ国紀行 その21 ウイーン自然史博物館(1) ヴィレンドルフのヴィーナス

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 ウイーン自然史博物館です。この博物館は世界的にも有名だそうで、マリアテレジアの旦那(神聖ローマ皇帝フランツ1世)が1748年頃から膨大な金を使い世界中から蒐集した岩石や化石や剥製や歴史的に価値のある物のコレクションが基本となっているそうです。1876年には帝国自然史博物館として開基されたそうだ。

 今回は5億年前の古生代から中生代、新生代にかけての生物の化石と復元模型をみてみましょう。私は、自然史博物館は大好きで子供の頃に戻れる気持ちになれるのです。

 最初の写真は、マンモスの先祖みたいな動物ですが、牙の向きが逆なんです。不思議と思いませんか。

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 恐竜が一番迫力があり面白いですね。

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 このでかい恐竜、部屋の隅から隅にかけて占有しています。写真集を作りました、古生代から順番に生物の進化が見れます、参考にして下さい。

 マイフォト ウイーン自然史博物館 写真集

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邪馬台国への旅(続篇) その4 伊都国続編

 承前 邪馬台国への旅(続篇) その3 一支国(壱岐)→末盧国→伊都国

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 伊都国三王墓についてメモを残します。弥生時代中期の王墓である三雲南小路の王墓、弥生時代後期前半の王墓である井原鑓溝の王墓、そして、弥生後期末の王墓である平原の王墓です。

この三王墓に副葬されていた銅鏡の数は110面も存在し、墓に銅鏡を副葬する葬送様式はその後の奈良盆地の古墳時代初期の古墳に影響を与えたと考えられる。森さんの話では箸墓古墳は平原古墓から半世紀後の古墳であると述べる。

 森さんの考えは、この平原古墓の年代が魏志倭人伝の卑弥呼の時代に相当するので、有力な卑弥呼の墓であると想定されている。

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 魏志倭人伝の卑弥呼の時代の大陸との航路は狗邪韓国(現在の金海)から対馬、壱岐、呼子(末盧国、今の呼子と唐津)のルート(倭人伝ルート)であったが、ヤマト王権が勃興『4世紀頃)すると宗像から対馬へのルートがメインとなる、記紀で記録する海北道中と呼ばれる航路である。

 伊都はヤマト王権の時代になっても重要な場所であったようです。8世紀に新羅と緊張が高まりました、その時に吉備真備(きびのまきび)が怡土(その頃は伊都から怡土と名前から都の字が削除された)派遣され、高祖山の西斜面の巨大な中国式山城を建設を開始した。有名な怡土城であり、12年の歳月をかけて建造された。

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 実は近くに、古墳時代後期に建造された雷山神護石という山城址が残っているそうです。朝鮮半島との緊張関係が発生すると伊都(怡土)は重要な軍事防衛拠点として考えられていたのです。

 伊都で有名な話にもう一つ、神功皇后の話がでてきます。彼女が新羅遠征の時に妊娠していました、そして石(温石=おんじゃく)をお腹にあてて出陣したという。その石は『筑前風土記』によれば、逸都(いと)の県の子饗(こふ)の原の二つの石であると書かれているという。

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邪馬台国への旅(続篇) その3 一支国(壱岐)→末盧国→伊都国

 承前 邪馬台国への旅(続篇) その2 狗邪韓国→対馬国→一支国(壱岐)

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 遂に帯方郡の使者は九州に上陸します。壱岐国から海を渡る千余里、末盧(まつら)国に至る。四千余戸あり。山海にそうて居る。草木茂盛し行くに前人が見えず。好んで魚鰒(あわび)を捕り水は深浅なく皆沈没(潜水)して之を取る。

 末盧国はのちの松浦郡である。森さんの話では、壱岐の原の辻遺跡の港から南下し、呼子の海岸に使節は到着し、魏志倭人伝の上記感想を述べたと言っておられます。海岸線に沿って家々が並んでいるそうだ。呼子から末盧国の国邑のある唐津までは、陸路直線距離15キロだそうです。途中に弥生時代の大友遺跡があると言う。この遺跡からは縄文人の特徴を残した人骨が数体出土したらしい。

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 末盧は後の松浦、国邑は唐津と考えられているが四千戸も存在したという事は楽浪郡・帯方郡に匹敵する人口です。殆どの人は海人で海に潜水し入墨をした人々であったと記録されている。私の父の故郷は佐賀県ですから、末盧国に関しては特別の思いがあります。

 唐津市には宇木汲田(うきくんでん)遺跡、菜畑遺跡、桜馬場遺跡という有名な弥生遺跡が多い。

 松浦川を遡上した久里双水古墳は古墳時代前期の古墳ですが、この辺りまで松浦湾の潟は入り込み船で往来できたと考えられている。

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越塚御門古墳に思う

 承前 牽牛子塚古墳で新たな発見

 今日の越塚御門古墳の現地説明会には3千人の一般市民が見学に来たという報道がNHKのニュース番組で報道されていた。インタビューされた紳士は手に日本書紀を持っていると述べていました。現在の極東の軍事的な緊張と、この天智天皇の時代と何処か似ている所が共感を得ているのでしょうか。

 蘇我氏が圧倒的な政治を支配していた時代から、入鹿を暗殺し新しい日本を建設しようとした中大兄皇子、そしてその母である皇極天皇(践祚して斉明天皇)の激動期の時代のメモリアルが牽牛子塚古墳であり、越塚御門古墳であるとすると浪漫があります。

 朝鮮半島の情勢は緊迫し、新羅が唐と連合し日本と親密な関係にあった百済を滅ぼした。飛鳥の朝廷では議論されたでしょうが、当時、飛鳥に人質として滞在していた百済の皇子である豊璋をたて、百済再建の為に援軍をつけ百済に送りこんだ。斉明天皇の晩年である。彼女は築紫まで、息子の中大兄皇子とともにでかけ朝倉宮に行幸した。

 しかし、彼女はその宮で突然に身罷るのです。暗殺された可能性もあるでしょうね。当時は朝鮮半島から高句麗・新羅・百済のスパイや情報機関が多数渡来していたと思います。戦時体制ですから、世の中は混乱していたと思います。

 先月、酒船石遺跡の下のスッポンの形をした石漕を眺めていて、斉明天皇が石漕に入り水の祭祀をされている姿を想像していました。彼女も、巫女的な面影が多い女帝でした。あたかも、卑弥呼の系統を継いでいるというイメージがあります。しかし、松本清張さんはユニークな意見で、彼女は拝火教(ゾロアスター教)の信者であったという説でした。

 ともあれ、斉明さんは娘の間人皇女を孝徳天皇の皇后にするが、又もや息子の中大兄皇子により失意の崩御となり不幸な娘を抱える事になりました。中大兄皇子は孝徳天皇を一人、難波宮に残し百官を引き連れ、又、間人皇后も引き連れて飛鳥に戻りました。

 一説では孝徳天皇崩御のあと間人皇女は女帝になったという説もあります。悲劇物語を綴るならば、一説では蘇我入鹿は斉明さんとただならぬ関係にあったという説もあり、息子の中大兄皇子に殺されたという解釈もあるようです。

 であるとすれば、母、娘ともに大事な男性を息子(間人皇女からすでは兄弟)に殺された母娘なんです。その二人が同じ墓に並んで埋葬された牽牛子塚古墳は深い歴史的な意味が有りますね。どんな思いで、二人は今も一緒に眠っているのか、考えるだけで胸が痛みます。そんな思いをしながら、先月、古墳の廻りを歩いていました。

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邪馬台国への旅(続篇) その2 狗邪韓国→対馬国→一支国(壱岐国)

 承前 邪馬台国への旅(続篇) その1 帯方郡より狗邪韓国へ

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 狗邪韓国より千余里にて対馬国に到着する。現在の対馬であり大官を卑狗(官名であり多分、ヒコと想定される)。副は碑奴母離(ヒナモリ、私は鄙守という官名かと思う。森さんは女王国の北の国々には女王国より派遣されていた官であろうと述べる)。

 『倭人伝』では『居るところ絶島、方四百余里、土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿(きんろく)の径のようである。千余戸あり。良田なく海物を食して自活す。船に乗って南北に市糴(してき)す。』と記述されている。

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 道路は禽(小鳥)や鹿が通る径(小道)のようであるというのが印象のようです。場所は、対馬の三根湾周辺にカヤノキ遺跡や坂堂遺跡などの弥生遺跡がありこのあたりに国邑があったと考えられる。グーグルアースには永留久恵氏の研究成果である『対馬国志』を参考に対馬国邑の地図を表示しました。

 森さんの話では、良田とは水田ではなく、古代の中国語では水田も畠もともに田の字であらわしていたそうです。

 対馬は千余戸という数字ですが、楽浪郡の戸数が三千七百、帯方郡が四千九百に比較すると絶島の割に多いです。市糴とは中継貿易の事であり、北は狗邪韓国、帯方郡、中国と交易し、築紫や瀬戸内海迄、中継貿易をしていたと永留久恵さんは考古遺物からそのように述べている。

 対馬では弥生時代後期に伊都国や奴国で製造された広サキ銅矛(矛の先端が広くて実用ではなく祭祀用)が出土する。イザナキ・イザナミが国つくりをした時に海に差し入れてかき混ぜたものは矛(アメノヌホコ)でした。対馬で142本の祭祀用の銅矛が出土している。

 『延喜式』神名帳によれば、対馬には29社、壱岐が24社、西海道全てで107社ですから、対馬・壱岐で半分の神社を占める。如何にこの地域が重要であったか判る。

しかし、考えてみると、投馬国が五万戸、邪馬台国が七万戸という数字は3世紀に於いて巨大都市であったという事ですよね。楽浪郡や帯方郡の10倍、14倍という規模だった事を考えると倭人のグループは東アジアで凄い勢力を持っていたと考えていいのではないでしょうか。

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牽牛子(けんごし=あさがお)塚古墳で新たな発見

 承前 明日香紀行(1) 八角形墳を訪ねるの段

 本日、読売新聞朝刊一面に牽牛子塚古墳のすぐ傍で新たな古墳が発見され、越塚御門古墳と命名され、大田皇女の墓ではないかと報道され、牽牛子塚古墳との関係から日本書紀の記録と整合する所からそれぞれ、斉明天皇・間人皇女(はしひとのひめみこ)合葬陵墓と大田皇女の墓である可能性が高まったという事である。

 明日、明後日と現地で説明会があります。駅で自転車を借りて、山を登ると便利ですよ。

 見学会模様ニュース動画

 読売ニュース 日本書紀の記述通り

 産経ニュース ダメ押し発掘で大発見

 読売ニュース 牽牛子塚古墳は斉明天皇陵か、実証の小古墳発見

 毎日ニュース 天智天皇、3女性の埋葬を済ませ遷都

 共同ニュース 鬼の俎・雪隠は改葬前の斉明天皇の陵墓か

 毎日ニュース 日本書紀通りに隣接して越塚御門古墳

 先月、私が発掘現場を訪問した時は見つかっていたんでしょうか。ともかく、偶然に見つかったようです。しかし、墓誌が出ている訳では有りませんので、宮内庁に陵墓指定変更を学会として要求する事は出来ないでしょうね。

 しかし、天皇にしか許されない八角形墳である事が判明し、二人の石室が見つかり、近接して立派な石棺が見つかりましたので、状況証拠としてほぼ、斉明天皇・間人皇女合葬陵墓と大田皇女の墓である可能性が高まりました。

 車木ケンノウ陵墓はどうなるんでしょうか、宮内庁が発掘して八角形墳である事を確かめないと斉明天皇の陵墓である状況証拠を提示出来ないですね。ともかく、牽牛子塚古墳と越塚御門古墳の遺跡保護について真剣に考えないと駄目である事は確かだと思います。

 今回の発掘で、鬼の俎・雪隠が改葬前の斉明天皇の陵墓であった可能性が議論されているようですが、早く、遺跡の保護をしないと駄目ではないですかね。

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邪馬台国への旅(続篇) その1 帯方郡より狗邪韓国へ

 承前 纏向遺跡と記紀での記録

 2005年の12月の記事で神保町の古本屋で見つけた『NHK取材班 邪馬台国への旅』を読んだ感想を記事にした。

  参考 『邪馬台国への旅』 その1 2005年12月3日

  参考 『邪馬台国への旅』 その2 2005年12月5日

 今回は、森浩一さんの『倭人伝を読みなおす』(ちくま新書 2010年8月10日)を読みながら、再度、帯方郡から邪馬台国への旅を辿る旅をしてみたい。森浩一御大は既に80歳を越えられているのに元気でおられる姿を私は先月、伊勢国での講演会で拝顔させて貰った。まるで、青年のような考古学への夢をお持ちの姿に感動している。

Photo  先ず、『倭伝』、『倭国伝』でなく、何故『倭人伝』と魏志では書かれたのかを理解しておく必要があると森さんは主張されている。私の理解は卑弥呼を盟主とする邪馬台国連合の国々が列島には存在したが、属さない倭人の国々が存在し、早く統一国家が生まれて欲しいと望んでいたのが魏の立場ではなかったかという背景が存在したと思います。

 森さんの大胆な仮説はあとで、詳しくご紹介しますが帯方郡から派遣された張政により卑弥呼は死を賜り、北の女王国とその南にある狗奴国との対立を解消させ一つの倭国成立に長く倭国に滞在し貢献したという。

 さて、帯方郡の位置ですが、私は今まで現在のソウル近辺に存在したと考えていましたが、森さんは以下のように述べておられます。以下引用文です。

  『楽浪郡は北朝鮮の首都のある平壌市の南部、帯方郡の郡治はそこから南方約70キロの黄海道鳳山郡智塔里である。・・・・・・・ 楽浪郡の郡治は大同江の左岸、帯方郡の郡治は大同江から分かれて南流した載寧江の支流の瑞興江の右岸にあって、ともに船の入れる地形である。』

 衛星写真で概略の場所を示しましたが、北朝鮮の領域にあるのですね。帯方郡の遣使は大同江の河口から朝鮮半島西岸を南下し、半島の南端の狗邪韓国(現在の金海)まで船で沿岸を航行した。7千里と倭人伝では記録されている。

 朝鮮半島西岸の海は干満の差が激しく、満潮時と干潮時では11メータも差があるとNHK取材班は述べています。従い、航行は干潮時に岸から離岸し沖に南に向かい航行し、満潮時に岸に向かい航行するという、いわば、ノコギリの歯のような航路で南下したと想定されている。沿岸航法での危険は座礁である。

 例えば、最近の事件としては道徳島沖の沈没船の引き上げである、韓国では「新安沖海底の沈没船」と呼ばれているが、この船は鎌倉時代に京都の東福寺が伽藍の建立の資金を得る為に商人の協力を得て派遣した貿易船であった事が判明した。その貿易船が荷物を満載して帰国途中に座礁し、沈没したのであり、水中考古学の成果である。

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 魏志倭人伝によれば、帯方郡を船で航海を始め、先ずは朝鮮半島南部の狗邪韓国に到着する。狗邪韓国とは現在の金海市であるが、4世紀、5世紀には加羅(伽耶・駕洛)であり釜山市の西にある。当時の迎賓館は鳳凰台に存在したと想定されている。

 当時の遺跡としては、金海(池内洞)遺跡、金海(会ケン洞)遺跡、金海(良洞里)遺跡が有名だという。

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但馬国紀行 コウノトリの郷公園

 承前 但馬国紀行 玄武洞

 絶滅危惧種であるコウノトリを守っている場所が、豊岡のコウノトリの郷公園です。廻りの農家の人々はなるべく農薬を使わないように町ぐるみで協力されています。そして、兵庫県のシンボルの鳥となっています。翼長が2メータもあり飛ぶ姿は優美であり、気品があります。

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 円山川河口は5世紀の頃までは、河内湖のように大きな潟湖が拡がっていました。その後の土木工事により川の水は日本海に排水できるようになったが、秋の台風や長雨が続くと氾濫したようです。最近では、2004年秋の台風の通過により円山川は氾濫し豊岡市内の大半が水没するという出来事は皆さんの記憶に残っています。

 アムール川流域で夏を過ごし冬は中国南部地方に越冬に出かける渡り鳥にとり円山川流域の湿田地帯の餌場は格好の場所ではなかったでしょうか。今でも、円山川の中洲には葦が茂り小魚が沢山住んでいそうでした。そして、田圃が拡がりどじょうや、カエルという餌も豊富だったと思います。

 参考 兵庫県立コウノトリの郷公園

 コウノトリの郷公園では午後3時からモグモグタイムがあります、その時の30羽に及ぶコウノトリの生き生きとした姿を撮影出来ました。是非、マイフォトを参照して下さい。

 マイフォト コウノトリの郷公園 写真集

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但馬国紀行 玄武洞

 承前 但馬国紀行 円山川河口・日和山海岸・余部(あまるべ)鉄橋

 円山川右岸に160万年前の噴火時に噴出した溶岩が塊り、6千年前の縄文時代に海の波の浸食により露出した玄武岩の洞窟があります。国の天然記念物であり、今年の10月に認定された山陰海岸ジオパークの一部でもあります。名称は玄武洞と呼ばれ、幾つかの洞窟とミュージアムを集合して公園となっています。

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 六角柱が見えますが、これが柱状節理と呼ばれるもので、私は東尋坊と層雲峡で観た記憶が有ります。非常に珍しい岩石だと言われ、この洞窟の名前から玄武岩という名前が生まれたそうですね。この洞窟が神仙思想の想像上の動物である玄武(亀に蛇が巻きついている動物で北の守り神です)に似ているところから命名されたそうだ。

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201012kinosaki_110  ノルウエー紀行をした時も何処かでこの柱状節理の岩を観た記憶がある。

学生時代に地質学を学んでいないので、専門的な事は判りませんが、6千年前の縄文時代に海の波の浸食を受けたという事は当時の海面の高さがこの高台の玄武洞まであったという事ですね。所謂、縄文海進の時代の海面の証明にもなるんですね。(三内丸山遺跡やノアの箱舟伝承の時代です)

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纏向遺跡と記紀での記録

 昨年の纏向遺跡に於ける大型建物址発掘に関して卑弥呼の宮殿ではないか、邪馬台国は纏向に存在したという論調がメデイアを中心に喧伝されている。しかし、邪馬台国は中国の資料である魏志倭人伝の話であり、日本側の資料では邪馬台国も卑弥呼も記録には登場していない。

 この大きなギャップが謎の深さを深めている。考古学的には近年の歴博に於ける箸墓古墳周濠の土器や石塚古墳の出土土器付着の遺物に対する最新のC14放射性炭素年代測定法により従来の3世紀末から4世紀の常識が3世紀中葉の卑弥呼崩御の時代に接近し、にわかに纏向遺跡は3世紀前半から中葉の時期であるという議論が沸騰した。

 中国側の資料と最新の科学的な纏向遺跡の遺物の年代測定から、中国側の資料である邪馬台国とりわけ卑弥呼の死亡年代と箸墓古墳の遺物の物理年代が合致する事から纏向遺跡が邪馬台国であるという議論が大きくなったのである。

 問題は、日本側の資料である記紀では一切、卑弥呼は登場しないし邪馬台国も登場しない。私が尊敬する考古学者の森浩一先生は邪馬台国九州説の学者さんである。彼の『倭人伝を読みなおす』(ちくま新書)を読ませて頂いた。私は邪馬台国奈良盆地東南部位置説ですが、森さんが言われる記紀と纏向遺跡との関連が私も気になっている。

 記紀によれば、第11代天皇、垂仁天皇の宮は纏向珠城宮であり、第12代天皇、景行天皇の纏向日代宮(ひしろのみや)であり、第10代天皇、崇神天皇の磯城瑞垣宮である。纏向遺跡で大型建物址が発掘されれば、記紀の記述を大事にする人ならば、これ等の天皇の宮ではないかと推測するのは自然な事である。

 私も昨年の纏向遺跡の大型建物址の現地を観て川に挟まれた大田微高地の状況から崇神天皇の磯城瑞垣宮ではないかという考えが浮かんだ。状況証拠としては、そのように思った。森浩一さんは、邪馬台国は古来、日本で「ヤマタイコク」と発音しているが、意外と彼の説は「ヤマト」と発音して不思議は無いと言われている。勿論、九州にも山門(ヤマト)と呼ばれる場所はあり、九州説を否定する論ではない。

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但馬国紀行 円山川河口・日和山海岸・余部(あまるべ)鉄橋

 承前 城崎温泉とコウノトリの故郷紀行 楽しんできました

Photo  今回の紀行は但馬国です、丹後国と接していますが大昔は丹波国に含まれていました。昔より但馬の国は円山川に沿って栄えた場所と思います。大河である円山川は日本海に注いでいますので、日本海航路から多くの人々と舶来の物資が運び込まれ栄えた港町と思われます。

 日和山(ひよりやま)海岸という名前そのものが、海運で栄えた町である事を証明しているようですね。円山川河口は5世紀の頃は潟湖であったそうで、黄沼前海(きぬさきのうみ)と呼ばれ、湿地帯でもあり円山川の氾濫で人々は住める状況ではなかったそうです。仁徳天皇さんの時代に城崎郡司である海部直命(あまべのあたいのみこと)の息子である西刀宿禰(せとのすくね)が円山川の河口の土木工事により瀬戸を開き川の水を日本海に放流できるようにしたそうです。

 仁徳天皇の時代には大きな大土木工事が河内でも行われ、上町大地に運河を掘削し河内湖の水を大阪湾に誘導し河内湖を干拓したと記録が残っていますね。応神天皇から仁徳天皇の王朝は河内王朝とも呼ばれるが、渡来系の氏族を使い土木工事の技術を持つ渡来人を利用したと考えられています。

 日和山海岸にある式内社の西刀(せと)神社は大土木工事で功績をあげた西刀宿禰を祭神としており、又、余部鉄橋のある余部(あまるべ)という名前も海部直命の「アマベ」が語源ではないかと考えています。日本各地にヤマト王権は海部(あまべ)を海運の拠点に作りました、そんな歴史を踏まえていると思います。

 城崎温泉の名前の「キノサキ」も黄沼前海(きぬさきのうみ)から転化した名前ではないかと推測します。

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 日和山海岸近くの日本海の打ち寄せる波は凄いです、冬の日本海は荒れています。

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201012kinosaki_040  荒波の人生行路を乗りきった爺さん達がこれからの余生について語っているんでしょうか。気楽そうです。

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 日和山海岸の波しぶきです。

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201012kinosaki_069  この海岸には浦嶋太郎伝説の竜宮城が観光客目当てかしらないが、海岸の岩の上に作ってありました。最初の衛星写真の図で示した丹後国の浦嶋神社や籠神社が瑞之江浦嶋子の伝説の地としては有名です。

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城崎温泉とコウノトリの故郷紀行 楽しんできました

 昨夜無事に城崎温泉、コウノトリの故郷から帰りました。大学時代のワンゲルの同期の仲間の大歓迎を受け楽しい旅でした。

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 当日の朝の横浜は嵐のようで、何とか飛行機も40分遅れで羽田を飛び立ち、神戸空港に到着、モノレールは強風で動かないので吾朗・道下どんが空港まで車で迎えに来てくれました。

豊岡着は夕方の6時頃、城崎温泉で温泉に浸かり、八十川どんの家で宴会となりました。観て下さい、今日朝港に揚がった『松葉カニ』です、豪勢で一人1個食べるのです。こんな美味しいカニ初めて食べました。

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 宴会は深夜まで及び、八十川どんの家の二階で吾朗・道下・joの三名は布団を川の字にして寝ました。朝起きると、またまた、松葉カニ(雄)の雌であるセコガ二です初めて知りました。

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 日本海、日和山海岸です、折しも風が強く竜宮城は大波に荒れていました。浦嶋太郎伝説は日本海側の天橋立あたりから存在しますね。

大荒れの日本海を眺めながら、余部鉄橋(あまるべ)を観光に出かけました。

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 先日、会社の後輩が出駆けたという話を聴いていましたので、楽しみでした。明治に出来た鉄橋も一部は記念物として残され平成のコンクリートの橋が出来ていました。

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 玄武洞です、山陰ジオパークが認定されたのでしょうか、柱状節理が観れました。

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 城崎漁港のイカ釣り船でしょうか、私は土産にカレイの一夜干しを買いました。

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中欧4カ国紀行 その21 ウイーン自然史博物館(1) ヴィレンドルフのヴィーナス

 承前 中欧4カ国紀行 その20 ウイーン市内散策

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20109wine_1342  ウイーン自然史博物館を訪ねました。是非とも観たいものがこの博物館にあるからです。

それは、尖石縄文考古館で展示されている国宝の『縄文のヴィーナスの親戚のような女神像が存在するからです。

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 1908年にオーストリアのヴィレンドルフで旧石器時代22,000年~24,000年前の遺跡から発掘された『ヴィレンドルフのヴィーナス(Venus of Willendorf)』と呼ばれる国宝の石像です。

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 薄暗い部屋なので、実物の写真は多少ボケていますが、世界的に貴重な石像なんです。ちなみに、尖石縄文考古館の『縄文のヴィーナス』と比較して下さい。

尖石のヴィーナス VS ヴィレンドルフのヴィーナス

 日本の場合は縄文中期ですから4千年~5千年前の土偶ですから、時代は異なりますが似てると思いませんか。日本のヴィーナスは高さ27センチ、2.14キロですから倍の大きさとなります。両者ともに豊満なお尻ですから豊饒・多産を祈念しているのでしょうね。

 日本の場合は顔がきちんと表現されているが、オーストリアの女神は帽子のようなものをスッポリと被り顔が判りません。不思議ですね、何故でしょうか。そして、携帯していたのではないかと考えられているようです。日本の場合はどっしりとして、安定しているので祭壇に置かれていたのではないでしょうか。

 『縄文のヴィーナス』は最初、赤とんぼの三浦先輩に連れていって貰い見学しましたが、大英博物館で昨年、縄文土偶展が開催された時は私もロンドンで見学しました。

 過去記事 英国紀行 その10 大英博物館

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中央4カ国紀行 その20 ウイーン市内散策

 承前 中央4カ国紀行 その19 ウイーン美術史美術館(6)

 ウイーン市内散策です、12世紀に建立されたシュテファン大聖堂からヨハンシュトラウスの像があるウイーン市立公園を歩き、最後はオスマントルコ軍と戦い勝利した将軍のオイゲン公の夏の離宮であるベルべデーレ宮殿に向かいました。

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 12世紀に建立され、ハプスブルク家に14世紀~16世紀に改築されたシュテファン大聖堂です。

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 モーツアルトの結婚式も葬式もこの大聖堂で行われたそうです、勿論世界遺産です。

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 オーストリア市立公園に建つヨハンシュトラウス像です。この日の夜はコンサートに出かけ彼のウインナーワルツの音楽も堪能しました。

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 同じく公園の側を流れる川です、美しい風景が続きますね。

 マイフォト ウイーン市内散策 写真集 暇のある人は写真集でウイーンの市内見物をして下さい。

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