邪馬台国への旅(続篇) その9 投馬国・邪馬台国
魏志倭人伝最大の謎が投馬国・邪馬台国への行程についての記述です。原文をそのまま読むと、不弥(彌)国の記述のあと『南至東馬国水行二十日官曰彌彌(みみ)副曰彌彌邦利(みみなり)可五萬餘戸南至耶馬壹国女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬・・・・・・可七萬餘戸』とあります。
これは文字通り読むと、北九州の不弥国(森浩一さんは宇美川界隈と想定、宗像界隈とする説もあり)から南に進路を取ると邪馬台国は台湾あたりの遥か南方海上になります。江戸時代から明治、大正、昭和、平成と数百年の間、この解釈を巡り議論が続いている。
『森浩一さんの解釈は概略以下の通りです。 邪馬台国九州説』
倭人伝筆者、陳寿が最初に書いた原稿では不弥国の記述のあと、実は、上記の投馬国、邪馬台国の記述は存在せず、直ぐに、『自女王国以北其戸数道里可略・・・・・』と続いていたと解釈。台与が晋への遣使の際にもたらした新しい情報を陳寿が倭人伝をまとめる際に挿入したと解釈している。(投馬国から邪馬台国の記述部分)
従い、投馬国・邪馬台国の記述の行程は帯方郡からの行程であると解釈し、帯方郡から船で航行し20日間で投馬国、そして投馬国から船で10日間、陸を1カ月間歩いた場所に邪馬台国が存在すると解釈する。
所謂、邪馬台国九州説は投馬国・邪馬台国の行程の記述の出発点は帯方郡であると考えるのではないでしょうか。
『邪馬台国を奈良盆地東南部と考える研究者の考え方』
投馬国・邪馬台国への行程記述の南は陳寿の間違いであり、東と読めば良いという考えです。北九州の不弥国から東に船で20日間で投馬国(吉備と考える人か出雲と考える人が多いと思う)に至り、其処から船で10日間航行し上陸して1カ月を陸上を歩いて邪馬台国に至ると考える。
これも強引な説であると、私は子供の頃から考えていました。無理やり奈良盆地に邪馬台国を持ってくる説だと考えていた。
しかし、数年前に『三輪山セミナー』に参加した時に千田稔さんが講演されたのを聴いて、南を東に強引に読み直す考えも有りうると考えるようになりました。
千田稔さんの講演を聴き、15世紀から16世紀の頃までは中国人は倭国は九州島を北にして本州は南に連なる列島であるという認識をしていたのではないかと思うようになりました。
倭人の風俗についての記述が、南越地方の海人と同じような記述であり、倭国は長江下流域からベトナムにかけての対岸まで連なる列島であるという、認識だったように思います。
何れにせよ、投馬国5万戸、邪馬台国7万戸というずば抜けた人口を擁する地域を支えるには大きな稲作の生産力が存在しなければ成立しない。3世紀の稲作の生産力を検証する考古学が今後、進むと考えています。
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