邪馬台国への旅(続篇) その8 福永さんの話のつづき
前回の、福永伸哉さんの論文『考古学の新しい成果と邪馬台国論争』の続きです。
(卑弥呼共立と考古資料の変化)
前回の記事で述べた、新しい年代観でみると卑弥呼共立の時期は考古学で言う庄内式土器の時代となり、その前の倭国混乱の時代、即ち2世紀の時代は弥生後期後半という事でした。
弥生後期後半の時代は北部九州と畿内地域で青銅製祭器の発達が頂点を迎えていた。北部九州では長さ1メータ近くもある広形(森浩一さんは広キッサキと呼ぶ)銅矛が盛んに作られ、畿内地域では銅鐸が巨大化し高さ1.3メータにもなる。あたかも東西両陣営が独自祭器の巨大化を競ったように見える。対抗関係にあったのではないだろうか。
一方、吉備地方では有力者の葬送用の祭器と考えられる特殊器台を発達させ、山陰地方では四隅突出型墳丘墓という独特の形をした首長墓を発達させていた。東海地方は畿内と同様の大型銅鐸を発達させていた。要は地域独自のシンボルをたてて政治的な結束がなされていた。
しかし、突然にこれらのシンボルは消滅する、1990年代に発掘された北九州市の重留遺跡では広形銅矛が、徳島市の矢野遺跡では最終形式の銅鐸がそれぞれ、弥生後期の遺跡の中に埋められた状態で発掘された。青銅祭器の終焉の時期を推定出来る事例として重要であった。弥生終末期(庄内式土器)よりも前の段階でこれ等の地域シンボルは終焉を迎えていた。
青銅祭器が2世紀末頃に突然に姿を消し、吉備の特殊器台も山陰の四隅突出型墳丘墓も衰退に向かうという事は列島に於いて広域の地域統合が生まれた事を物語る。
(邪馬台国政権と画文帯神獣鏡)
銅鐸や銅矛が消えた庄内式期に「邪馬台国政権」とも呼ぶべき政治統合に参画した各地の有力者が、新たに採用した共通のシンボルは何だったのか。3世紀前半に於いて倭の有力者達が最も重要視した器物を特定し、その分布を調べる事で邪馬台国連合が見えてくる。
福永さんは、画文帯神獣鏡であると結論する。この説には反論も多く、定説とは思わないが福永さんの説を簡単に述べる。
『考古学的論拠』
2000年に発掘された箸墓古墳の近くにある『ホケノ山墳墓』出土の画文帯神獣鏡に注目する。この墳墓は前方後円形で墳丘長80メータ、墳頂部には石囲い木槨が存在し複雑な埋葬施設である。3世紀前半の列島では最も入念な厚葬墓と考えられる。被葬者は邪馬台国時代の指折りの有力者と想定される。その被葬者が重視した祭器は倭人社会での新しいシンボルであった可能性が高い。
それは、画文帯神獣鏡と呼ばれる鏡であり、既に盗掘されていたので1面及び破片しか出土しなかったが、国学院大学に保管されている2面の画文帯神獣鏡はこのホケノ山墳墓出土と考えられ、最低でも4面の画文帯神獣鏡が副葬されていた可能性がある。
中国で3世紀前葉に制作された画文帯神獣鏡がさほど時間をおかずに、列島に舶来し副葬されるようになっていた。しかも、直径が15センチ以上とこの時期の青銅器の中では最大級である。既に日本では60面以上が出土しており、3世紀前葉の1種類の中国鏡としては量的にもかなり多くが舶来されていた。
ホケノ山のような列島有力クラスの首長墓に副葬されている事を考えると、この画文帯神獣鏡こそが邪馬台国政権の最も重視した権威の象徴ではなかったかと考える。
この画文帯神獣鏡の分布は四国の東部瀬戸内海地域を含む近畿地方に集中している事から邪馬台国は近畿特に奈良盆地東南部であると結論する。
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