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邪馬台国への旅(続篇) その7 土器編年と絶対年代

 考古学の世界では土器の形態により縄文時代から近世の時代までの相対編年が詳細に積み上げられて来た。出土した土器の地層の分析や形態比較によりきめ細かな相対年代が積み上げられて来た。その土器編年を絶対年代とリンクする所で、この数年の近畿地方での発掘成果や歴博での炭素14法での研究成果から教科書を書き換えるような議論が起こっている。この問題は、邪馬台国論争と密接な関係があるので、福永伸哉さん(阪大大学院教授)の意見を紹介します。

 この論文は、私が毎年参加している『三輪山セミナー』で有名な、大神神社が発行する『大美和』117号より引用します。

 『古い年代観』

 1980年代の半ば頃までの瀬戸内から近畿の研究者の間では、「卑弥呼共立」直前の「倭国乱」に対応する考古資料として、弥生時代中期後葉頃(土器編年相対年代)に顕著となる「高地性集落」が取り上げられていた。水田耕作に不向きな高地に何故、集落を作るのか、これは「逃げ城」であると考えられていた。

 又、その頃に石鏃が戦闘用に相応しい大型化が顕著となっていた。従い、倭人伝でいう2世紀後半の年代は、倭国乱の時代であり、弥生時代中期後葉であるという年代観が主流を占める事となった。

 従い、「卑弥呼共立」の年代は弥生中期末の事であり、次の弥生後期前半から邪馬台国時代の3世紀という年代観が通説となった。この弥生時代の年代観は、前方後円墳が西暦300年前後に出現すると考える当時の古墳時代研究者は考えた。

 弥生時代後期前半と言えば、畿内は巨大集落の多くが解体したり廃絶する社会の転換期にあたり、魏志倭人伝が述べる安定した邪馬台国が生まれる余地は無かった。これに反して、北部九州では前原市の井原鑓溝遺跡や、唐津市の桜馬場遺跡のように中国鏡や列島製青銅器を多数副葬する有力墓が邪馬台国に相応しいと考えられていた。

 『新しい年代観』

 しかし、この年代観はその後の発掘や研究の進展により大きく変動した。福永さんの意見を紹介します。彼は主な三つの成果を掲げている。

 (1) 「貨泉」の出土

 80年代になり、八尾市亀井遺跡や東大阪市巨摩廃寺遺跡などの弥生後期前半の遺跡から、中国の貨幣である「貨泉」が出土する例が増えた。「貨泉」形態の研究により、弥生後期前半の遺跡で見つかるものは、初期の貨幣である事が判明した。

 この成果により、弥用後期前半は従来考えられて来た3世紀ではなく、200年古い1世紀前半ではないかと考えられる事となった。

  (2) 「年輪年代法」の研究成果

 1994年に和泉市池上曽根遺跡で弥生中期後葉の建物の柱に使用された檜の伐採年が紀元前52年と判明した。「年輪年代法」による研究成果である。かつて、高地性集落の増加現象を倭国乱と結びつけ、2世紀後半と考えられていた中期後葉の年代が実は200年も遡る事となった。

  (3) 黒塚古墳・ホケノ山古墳出土銅鏡

 1998年に発掘された天理市の黒塚古墳は布留式土器の時代であり、古墳時代初期であり、多くの三角縁神獣鏡が出土した。2000年に桜井市は発掘を実施し、ホケノ山古墳は庄内式土器の時代であり弥生時代終末期であり、三世紀前葉の画文帯神獣鏡が多く出土したと発表した。重要な事はホケノ山と黒塚の間で副葬される銅鏡に大きな違いが見つかった事です。

 福永さんの意見は、黒塚には卑弥呼の使者が240年に魏から持ち帰ったと考えられる、三角縁神獣鏡が副葬され、それより遡る三世紀前葉の時代の画文帯神獣鏡がホケノ山(庄内式土器墳墓)から出土した事です。

 福永さんの結論は、80年代以降の発掘や研究成果により、弥生中期後葉=紀元前1世紀、弥生後期前葉=1世紀、弥生終末期(庄内式期)=2世紀末~3世紀前半と考える事が出来るとする。邪馬台国論争に考古学から迫るには、弥生終末期(庄内式期)の遺跡や遺物を分析対象とすれば、ピントが合うと述べる。

 彼の論は未だ続くが、昨年の歴博による炭素14法AMS方による土器付着遺物の分析でも従来の弥生時代の絶対年代が150年程度遡るという研究が続々と発表されており、私も今まで考古学協会での発表について記事を書いて来ました。

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