« 中欧4カ国紀行 その24 ウイーンの銅像 | Main | 箱根の金時山から帰りました »

邪馬台国への旅(続篇) その6 不弥国

 承前 邪馬台国への旅(続篇) その5 奴国(なこく)

Photo  倭人伝では、「奴国より東行して、不弥国に至る百里、官を多模(たも)、副を卑奴母離(ひなもり)という。千余家あり」とある。

この地名を探ると、応神天皇が誕生した場所ではないかと推測される。『日本書紀』神功皇后摂政前紀に「誉田天皇築紫に生まれる。故(かれ)、時人、その産処を号(なづ)けて、宇瀰(うみ)という。」とあります。『古事記』では、宇美と記録されている。

 又、『築紫国風土記』逸文に、「息長足比売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)が新羅より凱旋して、芋○野(うみの)に至り太子(応神天皇)を生んだ。これに因んで芋○野という。」とあります。○は、さんずいに眉という漢字です。辞書にはありませんでした。

 倭人伝の不弥国は日本の古典から考えると、宇瀰、宇美、芋○、と記述され発音はウミではないかと考えられている。グーグルの衛星写真を添付しましたが、福岡平野には西から那珂川、御笠川、宇美川がほぼ平行に流れ博多湾に注いでいる。西の那珂川流域は奴国が栄えた流域であり、東の宇美川流域が不弥国が栄えた領域ではないかと想定される。

 不弥国は後に、糟屋屯倉(かすやのみやけ)と呼ばれた海の拠点を領域内に持つと考える。宇美町、志免町、粕屋町、新宮町が不弥国に領域だと森さんは推測されている。糟屋屯倉は継体天皇の時代に磐井の乱が起こり、磐井が敗戦し、息子の葛子がヤマト王権にさしだした屯倉が糟屋屯倉でしたね。そして、ヤマト王権は直接大陸と交易が出来る港を確保できたのでした。

 糟屋でもう一つ、有名な話が有ります。京都の妙心寺にある銅鐘は糟屋評(こおり)造(みやっこ)ツキメノ連(むらじ)広国が鋳た鐘だそうです。日本最古の有銘の銅鐘だそうです。製造は698年であり、鎌倉時代に京都の妙心寺に移設されたそうだ。妙心寺と言えば、奈良の『それから』さんのお父さんの菩提寺でしたね。

Photo_2

  応神天皇の生誕の地と呼ばれる場所に宇美八幡宮があります。その近くに宇美町立歴史民俗資料館があります。

 この地域の遺跡としては、志免町の七夕池古墳、周濠のある円墳で竪穴式石室に4~50歳代の女性が葬られていたそうです。粕屋地域の弥生時代後期から末にかけて箱式石棺を埋葬施設とした墳丘があり、銅鏡を副葬している。志免町の亀山墳丘墓や粕屋町の大隈墳丘墓は支配層の墓と考えられる。

Photo_3

 宇美町には国の史跡である、光正寺古墳が存在する。墳丘長53メータの形の美しい前方後円墳である。グーグルで上空からの形態を参照して下さい。石棺や木棺など4つの多種類の埋葬施設があり、従来は古墳時代前期と考えられていたが、築造年代はもっと早い時期である可能性がでてきた。

 研究者によっては台与の墓ではないかと考える人もいるが、森さんは台与の時代は奈良盆地に移動していたと考えておられるようです。

 参考 宇美八幡宮(グーグルアース)

「umihachiman.kmz」をダウンロード

|

« 中欧4カ国紀行 その24 ウイーンの銅像 | Main | 箱根の金時山から帰りました »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« 中欧4カ国紀行 その24 ウイーンの銅像 | Main | 箱根の金時山から帰りました »