« 中欧4カ国紀行 その23 ウイーン自然史博物館(3) 道楽皇帝 | Main | 中欧4カ国紀行 その24 ウイーンの銅像 »

邪馬台国への旅(続篇) その5 奴国(なこく)

 承前 邪馬台国への旅(続篇) その4 伊都国続編

Photo

 さて、次は奴国(なこく)です。倭人伝では、『(伊都国から)東南奴国に至る百里。官を兕馬觚(じまこ)、副を卑奴母離(ひなもり)という。二万余戸あり。』と記録する。伊都国の側に突然に巨大な二万戸という人口を抱える国が登場です。それもその筈ですね、後漢の時代に金印を受けた有名な倭の国なのです。

 しかし、卑弥呼の時代の3世紀、魏の時代には卑弥呼の邪馬台国に属する国となっていました。漢の滅亡から公孫氏が楽浪郡、帯方郡を支配した激動期から魏が公孫氏を滅ぼした時期に奴国は倭を代表する地位を卑弥呼の邪馬台国に譲ったと考えられる。

 しかし、卑弥呼が景初3年(倭人伝では2年)に魏の都である洛陽に使者を送った時に、奴国はやはり活躍していたと考えられる。その使者は大夫の難升米(なしめ)と次使の都市牛利(としごり)である。二人は率善中郎将と率善校尉の位を魏から授かっている。大夫とは倭ではマエツキミと呼ばれる位であり、都市とは市(いち)を掌る役人である。

 難升米とは難(難、なだ、後の儺県、なだのあがた)と考えられ、奴(な)国の王か奴国の高級官僚と考えられる。升米が名前だったと考える。彼は、銀印を魏から授かるのである。(卑弥呼は金印)

 その後、難升米は卑弥呼が狗奴国と戦いが始まると、正始6年(245年)に魏の皇帝は難升米に黄幢(こうどう)を帯方郡を経由して送ってよこした。森さんの説では、この時に魏は卑弥呼を見限っていたと推論されている。難升米が奴国の人であるという説は、森博達氏の唱えられた説である。

 奴国は那珂川(なかがわ)流域と河口に栄えた国である。『日本書紀』宣化元年には那津に官家(みやけ)を作り、築紫・肥・豊の穀を那津の官家に集めている。那珂川右岸の比恵遺跡がその場所ではないかと考えれている。森博達氏は音韻学から、奴が儺となり、那と変化したと考えている。

 何れにせよ、奴国の人間が邪馬台国の卑弥呼の大使として、魏の洛陽にでかけ、その後、邪馬台国が狗奴国と戦う時にも重要な役目を果たしたと考えると、奴国には軍事的にも優れた面が存在したと考えられる。

 

Photo_2

 奴国の主な遺跡群を地図に表示しています、魏志倭人伝の頃の奴国の国邑は須玖遺跡のあたりと考えられている。現在は奴国の丘歴史公園となっています。那珂川右岸の春日丘陵の上には90個を越える弥生時代の遺跡が密集し、工業生産力が群を抜いていたと考えられている。

 考古学者達は春日丘陵を鎔笵(ようはん)丘陵と呼んでいる。鎔笵とは青銅器を製造する時の鋳型の事を指しています。20遺跡から百点余りの石製の鋳型が出土している。弥生中期から後期が盛んで、銅矛・銅戈・銅鏃・銅鏡・銅釧(くしろ=腕輪)・銅鋤先と出土している。2世紀にもっとも盛んな工業地帯であった。弥生後期には鉄の剣や刀を作り始めていた。

 参考 福岡市の文化財

|

« 中欧4カ国紀行 その23 ウイーン自然史博物館(3) 道楽皇帝 | Main | 中欧4カ国紀行 その24 ウイーンの銅像 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« 中欧4カ国紀行 その23 ウイーン自然史博物館(3) 道楽皇帝 | Main | 中欧4カ国紀行 その24 ウイーンの銅像 »