邪馬台国への旅(続篇) その4 伊都国続編
承前 邪馬台国への旅(続篇) その3 一支国(壱岐)→末盧国→伊都国
伊都国三王墓についてメモを残します。弥生時代中期の王墓である三雲南小路の王墓、弥生時代後期前半の王墓である井原鑓溝の王墓、そして、弥生後期末の王墓である平原の王墓です。
この三王墓に副葬されていた銅鏡の数は110面も存在し、墓に銅鏡を副葬する葬送様式はその後の奈良盆地の古墳時代初期の古墳に影響を与えたと考えられる。森さんの話では箸墓古墳は平原古墓から半世紀後の古墳であると述べる。
森さんの考えは、この平原古墓の年代が魏志倭人伝の卑弥呼の時代に相当するので、有力な卑弥呼の墓であると想定されている。
魏志倭人伝の卑弥呼の時代の大陸との航路は狗邪韓国(現在の金海)から対馬、壱岐、呼子(末盧国、今の呼子と唐津)のルート(倭人伝ルート)であったが、ヤマト王権が勃興『4世紀頃)すると宗像から対馬へのルートがメインとなる、記紀で記録する海北道中と呼ばれる航路である。
伊都はヤマト王権の時代になっても重要な場所であったようです。8世紀に新羅と緊張が高まりました、その時に吉備真備(きびのまきび)が怡土(その頃は伊都から怡土と名前から都の字が削除された)派遣され、高祖山の西斜面の巨大な中国式山城を建設を開始した。有名な怡土城であり、12年の歳月をかけて建造された。
実は近くに、古墳時代後期に建造された雷山神護石という山城址が残っているそうです。朝鮮半島との緊張関係が発生すると伊都(怡土)は重要な軍事防衛拠点として考えられていたのです。
伊都で有名な話にもう一つ、神功皇后の話がでてきます。彼女が新羅遠征の時に妊娠していました、そして石(温石=おんじゃく)をお腹にあてて出陣したという。その石は『筑前風土記』によれば、逸都(いと)の県の子饗(こふ)の原の二つの石であると書かれているという。
一大率の話は、古来議論が分かれ、魏又は帯方郡の役人であるという説と卑弥呼の邪馬台国が派遣した役人であるという議論がある。松本清張さんは魏、帯方郡説であるが、森さんもその説に同意されている。理由は、全体の倭人伝の記述の流れと宋の時代の中国の学者が記録した鮮卑の大師の記事の話です。
宋の学者の裴松之(はいしょうし)が陳寿の『三国志』に注を加えたそうで、鮮卑伝の注の中で二十余邑や十余邑を束ねた大人(たいじん)のなかに大師(だいそつ)となる者がいたという記述に注目する。大師も大率も同じ発音であり、中国にこのような官名が存在したと推測する。
志登という場所も歴史上重要な場所のようです。弥生時代中期の支石墓群が存在し、大石を組んで内部に人を埋葬する空間をつくる墓制である。朝鮮半島に多い墓制だそうですが、志登の支石墓は朝鮮半島南部の巨済島に見られる碁盤形支石墓だそうだ。その墓に朝鮮半島製の磨製石鏃が出土しているという。倭人伝の時代より古い時代から朝鮮半島から人々は往来し伊都国の志登に拠点をもっていたと想像される。
私は以前に何回も父親の故郷の佐賀と先祖について記事を書きましたが、江戸時代でも海外貿易をしていた海人が先祖となります。住吉(住之江)の筒男を先祖とする子孫ですからもっと九州玄界灘を勉強しないといけないと最近は考えています。
グーグルアース 伊都国三王墓
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