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邪馬台国への旅(続篇) その3 一支国(壱岐)→末盧国→伊都国

 承前 邪馬台国への旅(続篇) その2 狗邪韓国→対馬国→一支国(壱岐)

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 遂に帯方郡の使者は九州に上陸します。壱岐国から海を渡る千余里、末盧(まつら)国に至る。四千余戸あり。山海にそうて居る。草木茂盛し行くに前人が見えず。好んで魚鰒(あわび)を捕り水は深浅なく皆沈没(潜水)して之を取る。

 末盧国はのちの松浦郡である。森さんの話では、壱岐の原の辻遺跡の港から南下し、呼子の海岸に使節は到着し、魏志倭人伝の上記感想を述べたと言っておられます。海岸線に沿って家々が並んでいるそうだ。呼子から末盧国の国邑のある唐津までは、陸路直線距離15キロだそうです。途中に弥生時代の大友遺跡があると言う。この遺跡からは縄文人の特徴を残した人骨が数体出土したらしい。

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 末盧は後の松浦、国邑は唐津と考えられているが四千戸も存在したという事は楽浪郡・帯方郡に匹敵する人口です。殆どの人は海人で海に潜水し入墨をした人々であったと記録されている。私の父の故郷は佐賀県ですから、末盧国に関しては特別の思いがあります。

 唐津市には宇木汲田(うきくんでん)遺跡、菜畑遺跡、桜馬場遺跡という有名な弥生遺跡が多い。

 松浦川を遡上した久里双水古墳は古墳時代前期の古墳ですが、この辺りまで松浦湾の潟は入り込み船で往来できたと考えられている。

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 末盧国より東南陸行すること五百里、伊都国に到る。官を爾支(にし)、副をセツモコとヒョウゴコと言う。千余戸ありて世々王あり、皆女王国に統属す。郡使の往来で常に駐るところ。と倭人伝にある。伊都国にも志登に良好な港があるが、何故か末盧国から伊都国には陸路を採用している。3世紀には既に道路が開けていたと考えられる。

 伊都国の副に卑奴母離(ヒナモリ)が存在しない、夷守とすれば辺境を守る守備隊長であり、伊都国は辺境ではないので、必要ない。しかし、火の守で港の灯台を守る役目であるかも判らない。

 伊都国は重要な場所であると想定されるには千余戸というのは極端に人口が少ない。不思議な数値である。森さんの話では、太宰府天満宮に唐代に作成された、『翰苑』の一部である蕃夷部の写本が残り、そこに引かれている「魏略」には戸万余と記録されているそうだ。

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 考古学的にみて伊都国の範囲は東西12~13キロ、南北7~8キロと考えられ、国邑は三雲・井原遺跡あたりであり、西は加布里湾と東は今津湾の間にある志登遺跡群であろう。二つの湾の間には小舟が通過出来る程度の水路が存在したが、其処が伊都国と北の半島である斯馬国の境界であったた考える。森先生の教え子の岡部裕俊さんが研究された伊都国の3世紀の地図の一部をグーグルにあてはめて参考までに掲載します。

 三雲・井原遺跡群を中心に伊都国、王都ゾーンと一大率ゾーン、対外交渉ゾーンと分かれており、北の半島は斯馬国である。赤い線は3世紀頃の海岸線を示している。

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