2010年 思い出の旅(5) 国内編 三輪山周辺を歩く
承前 2010年 思い出の旅(4) 海外編 中欧4カ国・韓国 百済大典紀行
『笠縫邑を歩く 多神社・秦庄・笠縫神社・秦楽寺』
多神社は奈良盆地南部のど真中に位置し、三輪山と二上山と春分・秋分の日の太陽の道との関係でランドマークの位置に存在する。この神社から三輪山から太陽が登り、二上山に沈むのを眺める事が出来る。3世紀~4世紀の奈良盆地南部の稲作と青銅器製作の歴史を考えると、一番重要な場所である。
笠縫という場所は、『書紀』で崇神天皇の時代に疫病が流行したときに、宮中から追い出された天照大神をこの笠縫に移し娘の豊鍬入姫命に祭祀をさせた場所と考えられ、最終的には伊勢の伊勢神宮に天照大神は移られた。
ともあれ、多(オオ、オウ)と言うのが古代史では重要だと思っています。太安万侶のオウであり、出雲の意宇です。門脇禎二さんの『出雲の古代史』によれば、出雲は西のフルネの国と東のオウの国が存在し、5世紀からオウ宿禰は出雲国造であったという。
秦氏は本拠地が宇佐であるが、早くに出雲と吉備に進出したと考えられる。出雲の「しろうさぎ」の伝承も「斯盧 宇佐 来」と考えると、新羅の国の出身の宇佐(秦氏の本拠地であり秦氏そのもの)が出雲に進出したという伝承と捉える考えがあります。伝承のワニは王仁(和邇)氏を示していると考えられ、秦氏とのトラブルの伝承とする。
鏡作神社が数カ所存在する、鏡は銅鐸・広切先銅矛という祭器が消滅したあと威信財として国内で製造が始まった。邪馬台国時代は中国の威信財の鏡を輸入していたが、ヤマト王権発祥と切っても切れない重要な青銅器である。その鏡を作る工房がこの場所に存在する事の重要性は政治の中枢の場所(今で言う造幣局)であったと考える。
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