読売新聞記事(2010/12/22朝刊) 牽牛子塚古墳の意義
本日、読売朝刊にて橿考研の今尾文昭(いまお ふみあき)さんが『牽牛子塚古墳の意義』という論文を掲載された。見出しは、「皇統示す斉明陵改葬か」、『続日本紀』の記述と整合、とあります。よく整理された論文なので、簡単に要旨だけを紹介します。
『文献からの論拠』
(1)日本書紀の記述
天智6年条(667年)、天豊財重日足姫天皇(あまとよ たから いかし ひ たらし ひめの すめらみこと)=斉明と、間人皇女を小市岡上陵に合せ葬(かく)せり。是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の墓に葬す。
(2)続日本紀の記述
文武3年条(699年)に以下、天智天皇の陵と斉明天皇の陵の山陵造営記事がある。
《文武三年(六九九)十月甲午(壬午朔十三)》○冬十月甲午。詔、赦天下有罪者。但十悪・強窃二盗、不在赦限。為欲営造越智。山科二山陵也。
《文武三年(六九九)十月辛丑(廿)》○辛丑。遣浄広肆衣縫王。直大壱当麻真人国見。直広参土師宿禰根麻呂。直大肆田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。浄広肆大石王。直大弐粟田朝臣真人。直広参土師宿禰馬手。直広肆小治田朝臣当麻。判官四人。主典二人。大工二人於山科山陵。並分功修造焉。
今尾さんは、持統太上天皇が文武へと直系でつなぐ皇統を明確にする為に、父である天智の山科山陵と、祖母である斉明の越智山陵、つまり牽牛子塚古墳を改めて造営したと述べています。
『考古学による論拠』
・牽牛子塚古墳は、棺を覆う横口式石槨に凝灰岩を使い、入口と埋葬部の間の羨道が無いという特徴があり、7世紀第3四半期以前の築造とするのは疑問である。687年造営開始の天武・持統陵(野口王墓古墳 明日香)と比べても後の時代の特徴が強い。
・石槨の入口が一つなのは、二人を同時に葬った事を示し、合葬は予定の葬送、つまり改葬だったと推測する。
・『日本書紀』で改葬が明記されているのは、用明・推古・舒明陵のみであり、初葬の記事なしに改葬を記した事例が無い。従い、『日本書紀』で斉明陵に触れた初出となる667年の記事は、初葬と言わざるを得ない。越塚御門古墳も改葬を経た大田皇女の墓であると考える。
論文は現在の宮内庁の陵墓指定に触れた重要な記事が続くが、割愛する。
少し、コメントしますが、凝灰岩に今尾さんが触れていますが、天智天皇が近江に遷都した時に硬い花崗岩を細工出来る技術者を連れて行き、天武さんの時代からは花崗岩を細工出来る石工が飛鳥には存在しなくなったという話を聞いた事があります。凝灰岩は柔らかい石なので、石棺・石槨で利用加工できたと思います。
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