« 牽牛子(けんごし=あさがお)塚古墳で新たな発見 | Main | 越塚御門古墳に思う »

邪馬台国への旅(続篇) その2 狗邪韓国→対馬国→一支国(壱岐国)

 承前 邪馬台国への旅(続篇) その1 帯方郡より狗邪韓国へ

Photo_2

 狗邪韓国より千余里にて対馬国に到着する。現在の対馬であり大官を卑狗(官名であり多分、ヒコと想定される)。副は碑奴母離(ヒナモリ、私は鄙守という官名かと思う。森さんは女王国の北の国々には女王国より派遣されていた官であろうと述べる)。

 『倭人伝』では『居るところ絶島、方四百余里、土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿(きんろく)の径のようである。千余戸あり。良田なく海物を食して自活す。船に乗って南北に市糴(してき)す。』と記述されている。

Photo

 道路は禽(小鳥)や鹿が通る径(小道)のようであるというのが印象のようです。場所は、対馬の三根湾周辺にカヤノキ遺跡や坂堂遺跡などの弥生遺跡がありこのあたりに国邑があったと考えられる。グーグルアースには永留久恵氏の研究成果である『対馬国志』を参考に対馬国邑の地図を表示しました。

 森さんの話では、良田とは水田ではなく、古代の中国語では水田も畠もともに田の字であらわしていたそうです。

 対馬は千余戸という数字ですが、楽浪郡の戸数が三千七百、帯方郡が四千九百に比較すると絶島の割に多いです。市糴とは中継貿易の事であり、北は狗邪韓国、帯方郡、中国と交易し、築紫や瀬戸内海迄、中継貿易をしていたと永留久恵さんは考古遺物からそのように述べている。

 対馬では弥生時代後期に伊都国や奴国で製造された広サキ銅矛(矛の先端が広くて実用ではなく祭祀用)が出土する。イザナキ・イザナミが国つくりをした時に海に差し入れてかき混ぜたものは矛(アメノヌホコ)でした。対馬で142本の祭祀用の銅矛が出土している。

 『延喜式』神名帳によれば、対馬には29社、壱岐が24社、西海道全てで107社ですから、対馬・壱岐で半分の神社を占める。如何にこの地域が重要であったか判る。

しかし、考えてみると、投馬国が五万戸、邪馬台国が七万戸という数字は3世紀に於いて巨大都市であったという事ですよね。楽浪郡や帯方郡の10倍、14倍という規模だった事を考えると倭人のグループは東アジアで凄い勢力を持っていたと考えていいのではないでしょうか。

 対馬から南へ一海を渡ること千余里、名づけて瀚海(かんかい)という。一大国(壱岐国)に至る。方三百里、竹木と叢林が多く三千ばかりの家があり、田地はあって田を耕すもなお食するに足らず。又、南北に市糴する。

Photo_3

 島の南東にある印通寺(いんどうじ)港からは九州の呼子港との間に最近までフェリーが通っていたそうだ。この航路は倭人伝の航路であろうと森さんは述べています。

弥生時代の大集落跡である原の辻遺跡が有名です。多分この場所が壱岐国の国邑であったろうと考えられている。

 原の辻では青銅器を製造していた形跡があるという、銅鏃や銅釧(くしろ)は日本海を経由して丹後の地に運ばれていた。又、島の中央部に同じく弥生時代の大集落跡のカラカミ遺跡が存在する。カラカミとは唐神、即ち外来の神である。

 両遺跡に共通して鹿の骨を使用した卜骨(ぼつこつ)が出土している。西日本では卜骨が一番多いのは壱岐だそうで、航海を占ったのでしょうか。

|

« 牽牛子(けんごし=あさがお)塚古墳で新たな発見 | Main | 越塚御門古墳に思う »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« 牽牛子(けんごし=あさがお)塚古墳で新たな発見 | Main | 越塚御門古墳に思う »