充実の古代史紀行から帰還しました
11月12日夜、東京は八重洲の高速バス乗り場から名古屋行きバスに乗り、夜行で朝6時に名古屋駅到着。近鉄電車に乗り込み桑名を過ぎ富田駅到着は朝の7時過ぎ。駅前のおにぎり屋さんで、温かい味噌汁とおにぎりを食べ、昼食用のおにぎりとお茶を購入した。
朝8時半から三岐線の大矢知駅前集合の『壬申の乱ウオーク』と『第三回 四日市 久留倍(くるべ)遺跡まつり』に参加した。午後からは特別講演会があり、森浩一先生、奈文研の馬場基さん、三重大学の山中章先生の講演を拝聴した。
スピーカを肩から掛けて説明なさるのは山中章先生、生徒は古代衣装をつけています。先生は4キロのウオークを重いスピーカを肩から掛けて、熱心に参加された市民の皆さんにご説明されていました。今回の『壬申の乱ウオーク』は19回目だそうです。本当に熱心なお姿には頭が下がります。
久留倍(くるべ)遺跡は山中先生や地元の熱心な遺跡保存推進者の働きで国指定史跡に撰ばれたそうです。伊勢国の朝明(あさけ)郡の官衙跡と考えられており、同時に森浩一先生の話では聖武天皇が藤原弘嗣の乱の時に東国の武士団を味方にする為に伊勢国に行幸し行宮(かりみや)とされた『狭残行宮(さざらのかりみや)』ではないかと論説されていました。
聖武天皇が何故この地を国家存亡の危機の時に行幸されたのかは、天武天皇の先例を踏襲されたからだと思います。
大海皇子は吉野を抜け出し、最終地点は桑名だったそうですが、この遺跡の近くの迹太川(とほがわ)で天照大神(伊勢神宮)を遥拝した事で有名です。
大海皇子は伊勢神宮が味方したお陰で戦勝する事が出来たという事で、伊勢神宮を大事にされたそうです。それまでは、伊勢神宮はそれほど有名でも権威があった訳では有りません。
森浩一先生の話で面白かったのは、天武天皇は本気で信濃の国に遷都する考えだったそうです。天武さんの意志を継いだのは持統天皇さんでした、彼女は三河まで足を伸ばし信濃の国に遷都するルートの調査や道路の整備を始めたそうです。
新羅・唐の朝鮮半島の動乱は日本列島の政治に大きな影響を与えていたのですね。後日、詳細なセミナーや久留倍遺跡まつりの記録を残したいと思います。夕方、全てのイベントが終わり名古屋に近鉄で戻り、高速バスで京都に3時間をかけて行き、24時間不眠の長い日は終わりました。
参考 山中章先生のブログ
京都の清水さんの近くへ墓参にでかけましたが、坂本竜馬はんのブームで沢山の観光客が詰めかけていました。
祇園は不思議な場所ですね、豚を散歩させている御婦人に出合いました。散歩させないと、鬚が伸びて豚の健康に影響があるそうですが、理由が良く判らないです。
舞子はんと豚が散歩する東山と祇園はおもろい所ですね。
明日香村にも行きました。今、話題の牽牛子塚(けんごしつか)古墳です。今回の発掘で八角墳である事が判明し斉明天皇の陵ではないかと衝撃が走っていますね。
現地は立ち入り禁止ですが、発掘時の写真パネルが掲示されています。天皇陵を発掘出来る希少な重要な調査であり、慎重のようです。
ついでに、菖蒲池古墳の発掘現場の写真です。この古墳は天武・持統陵と藤原宮の朱雀大路を直線で結ぶ聖なるライン上に存在する謎の古墳です。これが、八角形の古墳であれば、天皇陵となり又もや、センセーショナルな事態になりますね。
酒船石遺跡にも勿論チャリを飛ばし見学してきました。山の上に酒船石がありますが、山裾に2000年に発掘された斉明天皇の水の祭祀跡と考えられる遺跡があります。
現地でのビデオ映像では、斉明さんがスッポンの形をした丸い石漕に入り祭祀をされているCGの映像が流れていました。水の祭祀に関しては、奥が深いので又、後日記録を残したいと思います。
快晴の中、チャリで明日香を走りまわり疲れました。近鉄で名古屋駅に向かい昨夜、帰還しました。ホンマ、強行軍でしたね。
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